一生もう二度と訪れまいと決めた場所に、たった2年振りに戻ることになるなんて、由理阿は夢にも思わなかった。でも、やむを得ない事態が発生したのだ。これまで明らかにされることのなかった、龍平の事故に秘められた真実が、解き明かされるかもしれない。夢と現実を行ったり来たりできる石村千代子が重要な鍵を握っていることは、疑う余地もないが。
 これから訪れようとしている神社跡は、実家から車で30分と離れていない距離にあるらしい。でも、あえて実家には立ち寄らないことにした。大学を休んでまで何をしているのかと聞かれても、答えようがなかったから。
 どんなに時が経とうとも、決して色褪せることのない記憶に支えられ、2年前の事故現場の確定にはそれほど苦労しなかったのに、いざ神社跡となると、事故現場周辺を行ったり来たりしても、それらしき物が見当たらない。
 はたして本当にそんな物が存在するのか、龍平の言葉を疑い始めた時、ふと竹林が目に飛び込んできた。緑から黄金色に変わりつつある稲が実った、辺り一面に広がる田んぼの中、そこだけ青々と竹が密集しているのだ。中に何か隠されていてもおかしくないという気がしてきた。
 はやる気持ちを抑えながら一歩一歩近づくにつれ、心臓の鼓動が速まっているのがわかる。
 間近で見てみると、そこがますます怪しく見えた。小さな神社ならすっぽり隠してしまいそうな広さの竹林全体が、半分に割った竹で作られた柵で囲まれているのだ。
 一瞬、中に入るのをためらったけれど、すぐに気を取り直した。はるばる東京からやってきて、そうやすやすと引き返すわけにはいかない。左足をかばいながらも、慎重に柵を乗り越えて侵入する。
 遠くから見れば美しい竹林なのに、いったん足を踏み入れてみると、手入れもされず、荒れ放題になっていた。枯れて倒れた竹が至る所に折り重なっている。踏むとバリバリ音を立てて砕けるけれど、行く手を遮って歩きにくいことこの上ない。
 神社跡と言われても、あまりイメージが湧かなかったけれど、機能的で動きやすいほうがいいだろうと思い、ジーンズとスニーカーで来たのは正解だった。
 鬱蒼と茂る竹林は日中でも薄暗く、淀んだ空気に包まれていた。
 奥に入っていくにつれ、何だか嫌な感じがしてきた。突然ぞっと寒気が走ったり、わけもなく鳥肌が立つのだ。
 さらに足を進めるうちに、由理阿は奇妙な感覚に捕らわれ始めた。誰かの、と言うよりも、複数の目に背後から見られている、それとも、後をつけられているような気がしてならない。
 とはいっても、何度振り向こうと、そこにあるのは竹の群生だけだ。やがて時間の経過とともに、感覚が研ぎ澄まされ、複数の視線の位置が自分よりずっと下の方にあることに気がついた。
 背後を気に掛けながら、わなわな震える足でそこら中探し回っても、倒れている鳥居はおろか、柱や梁らしき物も見つからない。
 ここじゃないのじゃないか、と諦めの気持ちが頭をもたげてきた時、右足に当たる物があった。危うくバランスを失って転がりそうになったものの、どうにかすんでのところで踏みとどまることができた。目を凝らしてよく見ると、それは石灯篭の笠の一部分のようだ。
 もしかすると------。希望の光が見えてきた。そもそも倒れたままの木造建造物が、長い歳月に渡って風雨に晒された状態で、原形をとどめているはずがない。石造物だけが残っていても何ら不思議はない。
 結局それ以上の発見はなく、やがて行き止まりが見えてきた。仮に入った所がかつて神社の入り口だったとすれば、神社の裏手に辿り着いたことになる。
 不意に足元で何かを踏み砕いた音がした。反射的に目を落とし、はっと息を飲んだ。
 竹の落ち葉の下、地面近くの浅い所を這いまくる竹の地下茎の間から、此処彼処と白骨が顔を覗かせているのだ。
 埋められた犬や猫などの動物の死骸が、風雨に晒されて地表に出てきてしまったのだろうか? でも、よく見ると人間にしては小さくても、犬や猫のようにも見えない。
 まさか、子どもでは?
 由理阿の脳裏にふとそんな思いがよぎり、ぞくぞくっと身も凍るようなおぞましい戦慄が全身を駆け抜けた。
 次の瞬間、由理阿の意志とは関係なく、足が独りでに後戻りを始める。
 背後から複数の追っ手が迫って来ていた。風も吹いていないのに、竹がザワザワと大きく揺れ、落ち葉がカサカサと音を立てて転がってくる。
 怖くて振り返ることなどとてもできない。倒れた竹をよけながら来た道を引き返す足が自然と速まる。 
 どうにか無事に外に出られた瞬間、膝から崩れ落ちた。片手を地面に付いて、額から滴り落ちる汗をタオル地のハンカチで拭った。
 安堵の溜め息をついたのも束の間、自転車で通り掛かった老人が近づいてくる。麦藁帽子を被り、首に手拭いを巻いている。お百姓らしい。
「ちょっと、お嬢さん、この辺の人と違いますな。そこに入ってはいけません。土地の者なら誰でも知っとるが、昔からそこに入ると祟りがあると言われとるんじゃ。竹林の周りに結界が張ってあるという言い伝えがあるんじゃ」
 由理阿は冷静を装っていたが、顔からみるみる血の気が失せていく。立っているのがやっとだった。
 今頃そんなこと言われたって------。高校卒業までここからそれほど離れてない所に住んでたけど、聞いたことなかった。せめて立入り禁止看板でもあれば------。あたし、これからどうなるの?
 不安に震える体を引きずり、来た道を事後現場に向かって引き返す。
 すでに異変が起きていたようだ。首と喉に言いようのない圧迫感がする、赤ん坊に後ろから強くしがみつかれているような。
 事故現場に到着しようという時、視線の片隅に着物姿の女が見えたような気がした。
 反射的にその方へ視線を向けると、道路脇に石村千代子が立っていた。というよりも、地面の少し上に浮いていた。由理阿が来るのを待ち受けていたかのように、女は、由理阿に向かって一直線に滑るように移動してくる。

 由理阿はガーゼケットを跳ね除け、上半身を起こした。
 激しく胸が鼓動していた。
「------あぁ、やっぱり夢だった。だから、竹林の端から端まで歩くのにあんなに時間がかかったんだ」
 安堵の胸を撫で下ろしたのも束の間、目の前の暗闇に女が潜んでいた。うつむいていて顔はよく見えないが、聞き覚えのある声だった。ささやくような優しい声は、蜜のように甘い毒を含んでいた。
「せっかく授かった命を摘み取ってしまっても何とも思わない親が多い、悲しい御時世ですが、長い間子宝に恵まれなかった私共がようやく授かったこの子は、たとえ暮らしが楽ではないにしろ、我が命に変えても、大切に育てていきたいと思っておりました。ところが、恥ずかしや、私はこのような体に成り果て、余命幾ばくもない有様です。どうか私に成り代わり、この子と神社へ参ってくださらぬか。わずかながらも、御礼を差し上げまする------」
 それだけ言うと、女は真赤な口でにやりと笑った。
 いつの間にかあの子どもが寄り添っていた。うつむいていて、顔はよく見えないが。
 恐怖のあまりガーゼケットを頭からすっぽり被った由理阿は、すべてを理解した。
 これって------、昨夜、クリーニング屋へ行った帰りにバスターミナルの下の地下道で見た、奇妙な光景の前に来るべき話に違いない。ということは、やっぱり石村正雄の手を引いていた女は自分で、あれが、沙羅の言っていた、あたしが消し去ってしまいたい体験なんだ。あんなことをしでかしてしまったんだから、あたしは呪われてもしかたがない。
 ガーゼケットの中で、由理阿はただひたすら夜明けを待つしかなかった。
 徐々に世界が白んでいく中で、いつまでもガーゼケットは小刻みに震えていた。