翌日の夕暮れ時、何事もなく大学から戻った由理阿は、石村千代子が待ち構えていやしないかと、恐る恐る部屋のドアを開けて中に入る。
「あれっ、来週停電があるんだ」
 郵便受けに入っていた1枚のお知らせを手に取り、そう呟くと、その場に立ち尽くした。
 奥の方から仄かな香水の香りが漂ってきた。決して忘れることのできない、柑橘系の爽やかな香り。深く吸い込むと、それまでずっと大切に心の奥に仕舞っていた感情が、洪水のように溢れ出し、その場に泣き崩れた。
 やがて涙も涸れ果て、ふと顔を上げた由理阿の瞳には、エアコンの下の床に膝を抱いて座っている者が映っていた。
「龍だよね------」
 それだけ呟くとその場に硬直して動くことができない由理阿に向かって、その者は静かに語り始めた。なつかしいかすれ声が由理阿の耳に心地よく響く。
「由理阿、怖がらないで。俺のこと忘れてなかったんだ。やっと出てこれてうれしいよ。この時をどれだけ待ち焦がれていたことか------いつ抜け出せるともわからない暗闇の中でじっとしてるしかなかったから------」
 顔に表情の動きが見られない以外は、最後に目にした時と何ら変わりがない。由理阿は信じられない、といった顔付きで、目の前の者から視線を逸らすことができずにいる。
「怖がってなんかいないよ。それに、忘れることなんてできなかった。あたしのこと一人にさせないって言っときながら------」
 由理阿の言葉が聞こえなかったように、かつて龍平だった者は無表情なまま続ける。
「霊にも色んなタイプがいてさ、この世とあの世を自由に行ったり来たりできる奴とか、夢に現れたりできる奴とかいるんだけど、俺は由理阿と連絡取りたくても、何にもできなかった------今こうして由理阿と話ができるのは、最近この辺で不幸が重なって、霊道が開いたから」
「れいどう?」
 由理阿はわからないというふうに首を傾げる。
「霊が通る道だよ。実は、3日前の夜にもここに出て来れたんだけど、あの時は炊きたての白ご飯の匂いと、お香のいい香りに惹かれて、霊の行列からはぐれちゃったよ------」
「えっ、あの夜ここにいたの?」
 由理阿は静かに立ち上がり、部屋を横切り、その者に並んで座る。
「うん、キッチンうろうろしてたのは俺」
「あっ、そうかあ。龍ってご飯好きだったもんね。それにしても、あたしをあんなに怖がらせといて------もう龍ったら」
 すねた子どものように口を尖らせている。
「えっ、そんなに怖かった? ごめん、ごめん。ははははは」
「それじゃ、ベランダのサッシ戸を叩いたのも龍?」
「えっ、俺そんなことしてないよ」
 由理阿の視線を避けるように顔を伏せた。
「えっ、じゃ、あれは誰だったんだろう? じゃ、あの後、現れた石村千代子って言う着物姿の女知ってる?」
「------知らないけど、由理阿と何か因縁あるんじゃないのかなあ? ちらっと見ただけだけど、おっかなそうだったよな。俺みたいにあっという間にくたばったもんと違って、この世に恨みつらみ残して死んでった奴らは、なかなか成仏できないからな」
「龍------会いたかった」
 由理阿の声の調子が変わった。
「------俺も。あれからどれくらいになる?」
「もう2年よ」
 二人はお互いの体を寄せ合い、お互いの存在を確かめ合う。
 見つめ合う二人の脳裏には、あの日のツーリングシーンが、ゆっくりとフラッシュバックしていった。

 高校2年の夏休み。原付デビューを果たしたばかりの龍平は、毎日のように後部座席に由理阿を乗せてはツーリングに繰り出していた。
 その日の昼下がりも、眩しくて見上げられない青空の下、二人はお揃いのシルバーのヘルメットを被り、青い中古バイクに跨った。
 溢れる光の中、車体がきらきら光を放っている。
 首筋と額から汗が流れ、早くもヘルメットの中では頭が蒸れ始めている。
 龍平はキックペダルに足を踏み込む。車体がエンジン音に合わせてブルブル振動する。
 由理阿が龍平の腰にしっかり手を回すと、スタートだ。
 龍平の家がどんどん遠ざかっていく。
 二人にはそんな日常がいつまでも続くように思われた。
 走り出してしばらくすると、龍平はバイクを道路脇に止め、振り返った。由理阿と目が合う。
 どうしたの?
 バイザーの奥の由理阿の目がそう聞いている。
「由理阿------俺の運転どう思う? もう結構腕も上がってきたから、そろそろ高速に出てみようと思うんだけど------」
 ヘルメット越しにくぐもった声がした。
「------龍、正直言って、あたしまだちょっと不安だよ。もうちょっと待ったほうがいいと思う。本当のこと言うと、あたしも高速でぶっ飛ばしてみたいのはやまやまなんだけどね」
 由理阿の声も少しくぐもっている。
「じゃ、今週は止めといて、来週ちょっと試してみようか?」
「うん」
 それが二人が交わした最後の会話だった。
 二人が再び道路に出てしばらくしてからのことだった。龍平が急にハンドルを切り、由理阿は反射的に龍平の腰に回した手に力を入れた。次の瞬間、由理阿は激しい衝撃音を聞き、路上に投げ出された。
 時間が止まったかのように、次の数時間に起こったことは、由理阿の脳には記憶されなかった。由理阿が後になって聞いたことには、バイクは前から走ってきた軽自動車と衝突したということだった。
 由理阿が意識を取り戻した時には、市立病院の救命救急センターの集中治療室にいた。
 病院特有の消毒薬の臭いが鼻を突いた。コンピューターの内蔵された機械や、わけのわからないチューブが幾つもぶら下った機械が、規則的な音を立てていた。
 すっぽりギブスに包まれた左足が突然視界に入った時、頭の中が真っ白になった。
 はずしてもらった後、はたして元通りに歩けるようになるのだろうか? どれくらいリハビリが必要になるのだろうか?
 これから超えていかなくてはならないハードルを思うと、激しい不安に襲われ、 再び気を失いそうになった。
 顔を上げた時、ガラス越しに見えたのは、両親と祖母の心配そうな姿だった。
 辺りを見回しても、どこにも龍平の姿はなかった。不意に彼のことが心配でたまらなくなった。でも、その時はまだ、もう二度と彼の生きている姿を見ることはないなんて、思ってもみなかった。

「由理阿、謝って許してもらえることじゃないけど、本当にごめんな。俺のせいで取り返しのつかないことになって------」
 龍平は心底申し訳なさそうに頭を下げる。
「今更いいよ。そりゃ一人生き残って淋しい思いさせられてるけど、運よく後遺症もないし------リハビリは死ぬ思いだったけどね。事故から1ヶ月経って始まって、松葉杖なしで歩けるようになるのに3ヶ月もかかったんだから------」
 遠い目をして言う。
「話は変わるんだけどさ、龍が死んでから、一つだけずっと気に掛かってたことがあるんだけど------」
「えっ」
 今更何を聞きたいって言うのか、驚きを隠せない。
「龍、どうしてあんな事故起こしたのよ? そんなにスピード出てなかったし、見通しも悪くなかったと思う」
 龍平は、由理阿の真っすぐな視線を避けるかのように、思わず目を伏せた。
「それが------こんなこと言っても、信じてもらえないかもしれないけど------突然、道の真中に女が見えたんだよ。着物着た女が手招きしてた。一瞬、自分の目を疑ったけどね。『おいでおいで。こっちにおいで』って耳からじゃなくて、頭の中に直接声が聞こえてきたんだ。その女をよけようとしてあんなことになっちゃったんだ。由理阿は見なかったんだよね?」
「うん、見なかったし、声も聞かなかった------龍、その女の顔覚えてない?」
「う~ん、覚えてないなあ。、ほんの数秒間の出来事だったから。今更どうしてそんなこと聞くんだよ?」
「別に。ちょっと気になったから」
「確かあの辺りって左手に神社跡があったから、俺をあの世に連れていくお迎えが来たのかな? でも、早過ぎたよ。まだまだこれからっていうところで。由理阿ともっといろんなことやりたかった------」
 由理阿は一瞬言葉を失っていた。
 もしかしたら------龍平が気がついていないだけで、あの事故は石村千代子が引き起こしたのかもしれない。もしそうだとしたら------あたしに愛する人を失う悲しみを味わわせるためにやったのかしら。
 由理阿は因縁の深さを思うと、胸が押し潰される思いがした。
「由理阿、どうかした?」
「ううん」
 由理阿は龍平の手を引いて立ち上がる。
 二人はそのままベッドに入り、抱き合った。
 かつて由理阿を燃えさせた、熱くて濡れた舌の感触はもうなかった。でも、由理阿には氷のように冷たい龍平の体が心地よかった。自分の体からどんどん熱が奪われていくことなど気にならなかった。
「由理阿、こうしてると、あの頃を思い出すよな------由理阿って汗とか精液とか苦手だったから、大変だったよなあ。俺もいろいろ気を使ったよ------今はこうして一緒にいても、ただ抱き合うことしかできない。所詮俺たち二人は違う世界の住人。昔には戻れないんだ------こんなことしてると、由理阿の命縮まっちゃうかもな」
 思い出に浸っていた龍平のかすれ声が、不意に不安気に震えた。
「龍、あたしはいいの。このままいつまでも龍のこと引きずって、後ろ向き人生送っててもね------たとえ今夜だけでも朝まで一緒にいて------」
「------由理阿がそれでいいのなら------だけど、俺朝までここにいられるかどうかさえわかんないよ。あっちの世界の時間の流れって、こっちと違うんだ。所詮一日24時間なんて、こっちの世界の人間が作ったものだからね。あっ、由理阿------俺もう行かなきゃなんないみたい。またいつかどこかで会えるかもしれないけど、元気でな。俺の分まで生きてく------」
 最後まで言い終わらないうちに、閃光のように消えていた。
 まだ夜が明けない暗闇の中で、由理阿は一人ベッドに横たわっていた。
 束の間にしろ、龍平と時間と空間を共有できた余韻が心と体に残っている。
 いっそのこと、黄泉路に連れていってくれればよかったのに------。
 目頭から涙が滲んでいた。