帰宅途中、沙羅の言葉が、何かの呪文のように由理阿の頭の中で繰り返し繰り返し響いていた。
「------その黒い服に何か意味がある------」
 いざ押入れに向かってみると、止め処ない不安が押し寄せてきた。
 もしなかったらどうしよう?
 普段ほとんど開けることもない押入れの中は、すえたような臭いが鼻を突いた。泊り客用のシーツや毛布の横に、幾つか箱が積まれていた。
 この中の一つに入っていれば------。
 そう願いながら、箱を一つ一つ取り出しては、その中身を調べてみても、出てこなかった。
 もしかしたら、クロゼットの中に他の服と一緒に掛かっているのかもしれない。
 最後の望みを託してクロゼットの中を引っ掻き回してみても、結局なかった。
 失望の色が由理阿の顔を横切る。
「どうしよう? 沙羅の夢が本当になった------あたし、これからどうなるんだろう?」
 ぽつりと呟くと、その場にへたり込んだ。

 キャンギャル仲間の杏奈と自分が同じ日に見た同じ夢。自分が血まみれで死ぬ夢。あの日以来、由理阿はあの夢が現実になることを恐れていたのだ。
 ただ、沙羅の言うように、夢の中の出来事がそのまま現実に起こることはないだろう。
 自分が殺される夢は、あの女の霊の出現という形で現実化したのだろうか? もしそうなら、これから自分の身に厄が降り懸かるのだろうか? いつかそのうち殺されるのだろうか?
 由理阿はもはや平常心を失っていた。どうにかしてあの喪服の在り処を突き止めなければ、という強迫観念に囚われていた。喪服さえ見つかれば、夢は必ずしも現実にならないという証明になる。喪服さえ見つけられれば、夢の呪いから逃れられるかもしれない。
 ただ、どんなに記憶の糸をたどろうとしても、途中で切れているようで、喪服を最後に着たのがいつだったのかさえ思い出せない。
 母なら何か知っているかもしれない。
 由理阿の脳裏にふとそんな考えが浮かんだ。そうなれば、居ても立ってもいられず、実家の電話番号を押していた。
 4回呼び出し音が鳴ると、母親の声が電話口から響いてきた。
「そうねえ------そう言われてもねえ------おそらく引越し前にクリーニングに出してあって、あわてて引越したものだから、取りに行くの忘れたんじゃないの? お母さんにはそれしか考えられないけどねえ――。だって、由理阿、たまたま通りがかったアパートの雰囲気が気に入ったとかで、運良く1部屋空いてたから、急に引越し決まったでしょう」
 母の言うことには一理ある。無駄に年取ってるわけじゃない。
 由理阿は、以前住んでいたアパート近くのクリーニング屋に、一度足を運んでみることにした。他に当てがないのだから、別に無駄足になったって構いやしない。
 慌てて身支度を整えて外に出た頃には、辺りはすでに夜の闇に覆われていた。
 踏切で綾瀬樹里が命を落とし、隣の部屋で末広が自ら自分の命を絶つまで、死をこれほど身近に感じたことはなかった。深夜の自室で、姿なき侵入者の足音を聞いたり、白い着物姿の女の霊を目撃するまで、暗闇をこれほど怖いと思ったことはなかった。
 闇の中に、この世を去ったはずの者、この世に戻ってきた者が彷徨っているようで、言い様のない不吉な予感が、ふつふつと闇の其処彼処から沸いては消えていく。

 アパートを出てから30分、由理阿は、少なからぬ思い出の詰まった駅のホームに降り立った。
 改札を抜けて、地下道から地上に出ると、駅前商店街が視界に入ってきた。商店街の中にもクリーニング屋があったことをふと思い出した。よく買い物をしたスーパーから目と鼻の先にあるはずだ。
 ただ、あそこに喪服を出したということは考えにくい。スーパーの袋を持ってバスに乗った記憶はあっても、ビニール袋に入った喪服をバスに持ち込むのは面倒だし、帰宅するまでにしわになりそうだ。
 商店街のクリーニング屋には寄らないことにし、家路を急ぐ乗客に混じって、バスに乗り込む。由理阿だけでなく、吊革にしがみつく他の乗客の顔にも疲労の色が濃く浮かんでいた。

 以前住んでいたアパートからそれ程離れていない所に、目当てのクリーニング屋があった。住宅街のはずれといった感じで、暗闇の中、そこだけ異空間のように蛍光灯の光が白く浮き上がっていた。
 光に惹かれた蛾のように、ゆらゆらと入っていくと、手持ち無沙汰でぼんやりと外を眺めていた中年男と目が合った。
「あの――、付かぬ事を伺いますが------」
「はい」
 目の下の袋状のたるみが目立つ顔には、どことなく見覚えがあるような気がする。
「この店っていつ頃からここにあるんですか?」
「そうだねえ。もうかれこれ12、3年になるかなあ」
 ふと遠い眼差しになる。
「実は、こちらに洋服を預けたと思うんですが、うっかり取りに来るのを忘れてしまったみたいで------」
 きっとこの店に違いない。喪服がありますように。
 心の中で祈っていた。
「それで、預かり票は?」
「------それが失くしちゃったみたいなんです」
「えっ、預かり票もないの?」
「すみません」
「それで、いつ頃のこと?」
 そう言いながら、由理阿の白いTシャツのVネックに、ちらりちらりといやらしい視線を投げてくる。
「------もう1月以上経ってるんですが------」
「------1ヶ月以内に引き取りのない物については、責任は負いかねるんですがねえ。そこの張り紙にも書いてあるでしょう------」
「すみません」
「本当にうちに持って来たの?」
 不審そうに由理阿のデカ目を覗き込む。
「と思うんですけど------」
「えっ、『思うんです』って、確かじゃないの? うちではね、紛失防止のために、こうしてタグにお客さんの名前を書いた紙ラベルを付けてるんですがね」
 手近にあるYシャツを引っ張って、タグを見せる。
「じゃあ、ちょっと探してみますが、お名前は?」
「神垣です。神垣由理阿です」
「それで、どんなものでしょうか?」
「サマーフォーマル、 喪服です。」
「喪服ねえ------」
 ハンガーに吊るされた服を動かしながらあちこち探している。
「------ちょっと見当たりませんねえ。他の店に出したんじゃないの?」
「------そうかもしれません。お手数掛けました」
 由理阿は店を出ようとする。
「あっ、ちょっと待って。念のためにここに名前と電話番号書いといて。もし後で出てきたら、連絡しますから」
「それじゃ、よろしくお願いします」
 フリルがふりふり揺れるミニスカートのお尻を、執拗な視線が追いかけていく。
 ここにないとしたら、もうあてはない。
 由理阿は来た道をとぼとぼ歩きながら、心の中で呟いた。
 唯一の頼みの綱が絶たれ、それまで張り詰めていた神経がぷつんと切れた。
 由理阿がふらふらと危なっかしい足取りでなんとか角を曲がりきると、男は店の奥へ入っていった。
「さあてと、これをどうしようと俺の勝手だ。もう1月以上経ってるんだもんなあ」
 両手に取った喪服に顔を埋めると、口許から粘液がすーっと一筋の線を引いて垂れた。

 由理阿はバス停のベンチに一人ぽつんと腰掛け、夢が現実になったという恐怖におののいた。
 夜が深まろうというのに、家路に向かう人の流れは絶えることはない。でも、出かける人はめっきり減ってきた。駅行きのがらがらのバスに乗り込み、窓際の席でうつらうつらする。
 駅のバスターミナルで下車すると、地下への階段を下り始める。真っ赤なペデイキュアが黒いミュールの足元から覗いている。
 階段の半分辺りの所で、自分の立てるカッツ、カッツという硬い靴音に重なるように、柔らかい足音が聞こえ始めた。薄っぺらいゴムサンダルか草履のような感じだ。
 バスを降りた時、この階段の方に歩いてきたのはあたし一人だったのに------。
 振り返ってみても、そこには誰もいなかった。階段の入り口の向こうには、漆黒の闇が顔を覗かせていた。
 不意にすーっと冷たい空気が、湿気を含んだじとーっとした空間を流れた。
 向こうには改札口があるだけなのに、異形の者が待ち構えているような気がしてならない。不吉な予感が閃光のように、現れれては消えていった。
 階段を下りきって一刻も早くその場を離れたい、と心ははやるものの、階段が波打っているように足元が不安定で、足がすくんで前に出ない。
 これってどうなってるんだろう?
 このまま足がもつれて転げ落ちるんじゃないか、という不安が湧き上がってきた。
 頬を冷たい汗が伝う。
 ところが、次の瞬間、金縛りから解き放たれたように、ゆっくりと足が動きだした。
 それと同時に、鮮明だった視野にベールが掛かったように、辺りが霞んで見えた。霧のような異様な空気に包まれると、現実と非現実の境界線が崩れ始めたようだ。
 自分の周りをぐるりとスクリーンが回るように、だんだん周囲の情景が何十年も前へとさかのぼっていくのが感じられた。
 由理阿は奇妙な光景を見ていた。

 夕闇が迫る山道を子どもの手を引いた女が急ぐ。元の柄がわからなくなるほど何度も縫い直された、つぎはぎだらけの着物をまとい、擦り切れた草履を引きずる。
 その表情は何かに怯えているようにも見える。見覚えのない顔なのに、由理阿はなぜか親しみを覚える。
 継ぎあてズボンにランニング一丁の男の子の方に視線を移した時、由理阿は、はっと息を呑んだ。あの夢とも幻覚とも判断のつかない状況で見た、あの男の子に違いなかった。
 やがて朱色が色あせた鳥居が見えてきた。
 そのまま境内に入り、参道を不安気に進む。
 突然、前方を白衣、袴姿の男が影のように右へ横切る。
「あの――、こちらの神社の方でしょうか?」
 恐る恐る声を掛けると、男は無言で立ち止まった。
「社務所はどちらでしょうか? この子が七つになりましたので、お札を納めに参りました」
 男は無表情で前方右側を指差すと、すーっと林の脇道へ消えて行った。
 ほどなく社務所に辿り着いたものの、何度呼んでも、返事がない。
 もう一度出直すしかない、と諦めて帰ろうとした時、頭の中から声が聞こえた。
「何をしに来なさった?」
「この子の七つのお祝いにお札を納めに参りました」
 それだけ言うと、怖くなった女は、人型の紙をその場に置いて立ち去ろうとする。
「供え物はどこじゃい?」
 頭の中の声が女を追う。
「------食うや食わずの身の上、お供えなどあろうはずもありませぬ。みすぼらしい身なりのゆえに、人目を忍び夕闇に紛れて参りました」
 震える声で答えた。
「手ぶらで来たのなら、記帳せんでよいが、その子の名前は?」
「石村正雄と申します。この子の母親が病を患っており、本日はわたくしが代理で参りました」
「母親の名前は?」
「千代子と申します」
「お前、先月、生まれて間もない赤子を境内裏手に埋めとった女じゃあるまいな?」
 不意に声の調子が変わった。
「いいえ、滅相もありませぬ。断じてそのようなことは致しておりませぬ」
 一瞬表情が揺らいだが、すぐに伏し目になって声を落した。
「帰りは決して振り向いてはならぬぞ。立ち止まったりせずさっさと帰るんじゃ」
 それを最後に声は聞こえなくなった。
 女は子どもの手を引き、来た道を引き返す。
 前方に鳥居が見えてきた時、後方で何かが落ちた音がした。
 女は反射的に振り返ってしまう。落ちていたのは、先ほど返したはずのお札だった。
 恐ろしくなり辺りを見回すが、そこには何もなかった。
 何もなくてよかった。
 安堵の溜め息をつく。