由理阿が我に返ったのは、右側に寝返りを打った時だった。怖々目を開ければ、自分の部屋があった。部屋の中も外もすっぽりと暗闇に覆われていたのに、部屋のほうが一層暗かった。
 目が慣れてくると、ベッドを離れ、ソファに横になって考えを巡らせた。映像はしっかり頭の中に焼き付いているのに、今し方見たものが夢だったのか、幻覚だったのか、それとも奇妙な映像が直接意識の中に入り込んできたのかわからない。 頭がしびれたような感覚を覚える。 
 無性に沙羅と話がしたくなった。彼女しかわかってくれる人はいない。いつもなら携帯メールで済ますのに、声が聞きたくてしょうがなかった。暗闇の中、一刻も早く日が昇るのを待ち望んだ。

 まだ夜空に星が輝いているのに、東の空がわずかに白んできた。辺りがほのかに明るくなった。
 空の表情がみるみる変わっていく。東の空の雲が赤く染まっていく。
 朝焼けがまぶしい。遠くに寺院のシルエットが見える。
 淡い早朝の光の中、膝を抱かえてソファに座る。ゆっくりと覚醒されていく時を待つ気だるさを覚えながら、行儀悪く立てた膝の間に顔を埋め、アンニュイな時間を過ごす。
 何事もなかったかのように、新しい一日が始まろうとしていた。
 
 ようやく午前7時になった。今日は水曜日だから、沙羅は1講目から出る。もう起きているはずだ。
 出かける支度が忙しくて急いでるかな?
 邪魔してはいけないと思いつつも、我慢の限界に達し、つい携帯電話に発信してしまった。でも、出てくれない。
 やっぱり邪魔して悪かったかな? それとも、まだ眠りの中にいたりして。新学期が始まってまだ1週間しか経っていないというのに、寝坊して1講目を自主休講していることもあるから。
 とりあえずメールを送る。

 沙羅から着信があったのは、2時間も後のことだった。
 睡眠中、枕元で携帯電話を充電していたそうだ。目覚ましにも使っていたので、音アリにセットしてあった。ところが、睡眠の邪魔をされたくなかったので、着信音はバイブにしてあった。慌ててうちを出た際、そのままかばんに入れていたから、大学に着くまで着信に気がつかなかったらしい。
 放課後お茶をしようということになった。
 なぜか沙羅はいつになく口数が少なかった。
「電話で済ませられるような話じゃないから------」
 彼女のほうからも話があるという口振りだった。

 由理阿が店内に一歩足を踏み入れると、薄明かりの照明が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
 汗まみれの体に冷え切った空気が心地よい。大学の校舎内もエアコンが効いているが、うだるような暑さの中を10分歩いただけで、ブラウスが肌にぴったり張り付いていた。
 大学近くで唯一ケーキセットがある喫茶店の店内は、いつものように学生で賑わっていた。
 約束の時間を少し過ぎてるから、沙羅はもう来てるに違いない。さあて、この中でどうやって見つけようかな?
 ゆっくりと広い店内を見回していると、窓際の席から沙羅が小さく手を振っているのが 見えた。遠目にもどことなく笑顔に不自然さが感じられる。
 席に近づくにつれ、遠距離のカップルが久々に会う時のような、妙な緊張感を感じる。
「由理阿、そのギャザーってなかなかゴージャスじゃん」
 シフォンブラウスの前のドレープギャザーに沙羅の目が向けられていた。
「ありがとう、沙羅。ヘベロテなの。シフォンって風になびく柔らかい生地なのに、この暑さじゃ台無しよね------。あれ、そういう沙羅だって、そのワンピース、シフォンじゃないの? 小さめのドットが清楚な感じだね」
「ありがとう。今年は何たってシフォンだよね」
 一通りお互いの服を褒め合うと、きまり悪い沈黙が流れた。お互いどのように話を切り出せばいいものか、思案しているようだ。
 由理阿は何気なく窓の外を眺める。晩夏の太陽が傾き始めている。
 日が沈めば少しは気温が下がるだろうけども、今夜も熱帯夜かな?
 そんなことを考えているうちに、注文したアールグレイのアイスとスポンジケーキのセットが運ばれてきた。
「------沙羅、わけもなくさびしくて、悲しくて無性に泣きたくなる時ってない?」
 由理阿はなにやら浮かない顔をしている。
「------なんで急にそんなこと聞くのよ、由理阿?」
 沙羅は困惑した表情で言った。
「------由理阿って、彼氏いなかったよね------。あっ、もしかして、まだ元彼のこと引きずってたりして? まだ2年だから仕方ないか」
 沙羅はいたずらっぽく笑ってみせた。
「ううん、そうでもないんだけど------」
「へへへ、わかるよ、由理阿の気持ち。あたしとしては、そろそろ新しい恋に巡り会ってもらいたいけどね。ふふふ、そういうあたしも最近いい恋してないからな」
「別に新しい出会いを拒んでるわけでもないんだけど------」
「あたし、わかるよ。由理阿みたいな仕事してると、しょっちゅう男に声掛けられてんじゃないの? 若い子は、由理阿を盗撮して、写真見ながら一人エッチとかしてるかもしれないけど、おやじは、金に物言わせてホテルに連れ込もうとするんじゃないの? 中には結構遊んでる子もいると思うけど、由理阿はそんなことお構いなしでしょ。そんなことしてたら、いつまで経っても、どこまで行っても、終わりが見えないって思ってるんじゃないの?」
「ピンポーン、あたしは遊ぶ気なんてさらさらないけど。かといって、恋愛がつまんないとか、面倒くさいなんて思わない。そうじゃなくて、自分が傷つくのが怖いんだと思う。デートを重ねるうちに、お互いの嫌な部分が見えてきて、最後はわだかたまりを残して別れちゃう。そんなこと何度もやってらんないよ――」
「由理阿って純粋なんだよね。もう少し打算的だと割り切れるかもね」
「------それに、あたし変かもしれないけど、汗とか粘液とかそういう物が苦手みたい。体を重ね合わせたとしても、心は遠ざかるって言うか------」
「あっ、そういうことか。だから、由理阿ってSNSにはまってるんだ」
「はまってるって言うほどじゃないんだけど、体は遠くに離れてて、ぜんぜん会えなくて------、もしかすると、もう一生一度も会わずに終わっちゃうかもしれないけど、話し掛けたい時に、下心抜きであたしの話を聞いてくれるって言うか------」
「本当に下心がない人がいるかどうかは別にして、あたしも、自分のこと心から気に掛けてくれる人が、いつか現れること願ってる。あっ、あたし由理阿につられて何言ってんだろう。ねえ、もうこんな話よそうよ」
「うん、いいよ。やっぱ沙羅と話してたら、元気づけられちゃった。あたし一人じゃないんだって」
「由理阿、こんなこと話したくて朝っぱらから電話してきたの? あたしをさんざん心配させといて------」
「ごめん、沙羅。今言ったことは、嘘偽りのない本当の気持ちなんだけど------」
 由理阿は舌を出してみせた。
「------本当に話したかったことは------」
 由理阿がそう言い掛けた時、沙羅の表情が一変した。
「また夢を見たんでしょう」
「うん、って言うか、夢か幻覚なのかよくわかんないんだけど------」
「由理阿、実は、あたしも夢を見たのよ、昨日の夜。それが、由理阿に関係ある夢で、電話で話せるような内容じゃなかったのよ------」
「じゃ、沙羅からお先にどうぞ。あたしの話は後でいいから」
「それじゃ、お言葉に甘えて------。昨日か今日、実家から何か連絡なかった?」
「えっ、別に」
 由理阿は唐突な質問に戸惑いながら答える。
「そう------、それなら、よかった------」
 沙羅は独り言のように呟く。
「沙羅、一体どうしたっていうのよ?」
「------付かぬ事を聞くんだけどさ、由理阿の実家って、あたし、この目で実際に見たことないんだけど、玄関の前に階段ってあったよね?」
「えっ、うん、あるよ、ほんの数段だけどね」
 どうしてそんなことがわかるのと言いたげだ。
「------ちょっと言いにくいんだけど、由理阿のおばあさん、そこで倒れて、打ち所が悪かったらしくて------、頭から血を流してた------。もしまだそれが起こってなかったとしても、これから起こるのかもしれないし------」
 視線を逸らしながら話す沙羅は、いつになく歯切れが悪い。
「へえ――、そんな――」
 由理阿は、真偽を確かめなくてはとわかってはいても、自分の顔からみるみる血の気が引いていくのを感じていた。
「えっ、知らなかったんだ。てっきり同じ夢を見たとばかり思ってたのに------」
「沙羅、ちょっと待ってて」
 少しだけ冷静さを取り戻した由理阿は、携帯電話を取り出し、震える指で実家の番号を押す。4回目の呼び出し音が鳴ったところで、懐かしい声がした。母親と話し始め、すぐに安堵の胸を撫で下ろした。
「あのね、沙羅、おばあちゃんが階段で倒れたことは間違いないんだけど、捻挫しただけで、大事には至らなかったんだって。だから、あたしを心配させないように連絡してこなかったんだって」
「えっ------、由理阿、本当にごめん。あたしったら縁起でもないこと言って------。お願いだから許して」
 本当に申し訳なさそうに、両手を顔の前で合わせて何度も平謝りしている。
「沙羅、いいから、いいから。それで、おばあちゃん元気づけるために、今度の日曜日にお見舞いがてらに帰ってこないかって。沙羅、よかったら、一緒に行かない?」
 久々に見る由理阿の笑顔を、沙羅は不思議そうに眺めていた。
「------やっぱ、夢の世界と現実の世界は違うんだよねえ。夢で見たことを鵜呑みにしちちゃうなんて、あたし初歩的なミス犯しちゃった」
 決まり悪げにそう言うと、沙羅は一呼吸置いて続ける。
「------由理阿、でも、夢の中で一つだけちょっとひっかかることがあって------」
「何なの?」
 由理阿が不安そうな声を出す。
「ちょっと細かいことかもしれないけど、おばあさんの葬式に着ていく喪服って言うか、礼服を由理阿が探しまくるんだけど、どうしても見つからなくって------」
「それで?」
 由理阿は表情を曇らせた。
「------由理阿、あたしの解釈ではね、その黒い服に何か意味があると思うの。それで、もしそういう服に心当たりがあって、最近着てなかったりしたら、ちょっとどうなってるか調べてみたほうがいいと思うんだけど------」
 沙羅は慎重に言葉を選びながら話した。
「沙羅、そう言えば、もう1年以上も前になるのかなあ? あたしが上京する前にお母さんが買ってくれたって言うか、いつか必要になるからって、半ば無理やり持って来させられたサマーフォーマルがあるのよって言うか、最近ぜんぜん着てないから、『あったのよ』って言ったほうが正しいのかな? 押入れの箱の中に入ってるはずだけど、7月にここに越して来た時も箱から出してないから------」
 遠い目になった由理阿は、一気に話した。
「あ~あ、今日はもう少し早く帰ろうと思ってたのに、もう逢魔が時になっちゃった」
 壁の古時計を見上げた途端、沙羅が口をすぼめた。
「ねえ、『逢魔が時』って何よ?」
「今みたいな夕方の薄暗くなった時のことよ。魔物が出る時だから気をつけなさい」
「じゃ、そろそろお開きにすっか」
「ちょっと待ってよ。由理阿の話まだ聞いてない」
「沙羅、また今度にするね。あたし、それよりサマーフォーマルのほうが気に掛かっちゃって。早く帰って探したい」
「本当に由理阿がそれでいいならいいけど------」
 由理阿はさっと立ち上がり、伝票をつかんでいた。
「あっ、今日はあたしのおごり」