夜が深まるに連れて、街の灯りが一つ、また一つと消えていき、街を包み込む暗闇の濃さが増していく。
 列車は都心の喧騒を離れ、一路郊外のベッドタウンの静寂に向けて疾走していた。
 間もなく日付が変わるというのに、駅に到着した列車のドアが開く度に、じっとり湿り気を含んだ空気が、冷房の効いた車内に流れ込んでくる。「暑さ寒さも彼岸まで」と言うように、例年9月下旬にもなると陽射しも弱まり過ごしやすくなるものだが、今年は厳しい残暑が続いていた。
 日中の暑さのせいか、座っている乗客のほとんどは、死んだように眠り込んでいる。其処彼処で立っている若者も、屍のように吊革にぶら下り生き長らえている。
 車輪がレールの継ぎ目を過ぎていく時に立てる音が、静まり返った車内にリフレインのように響き続ける。
 沙羅は1月半ほど前に由理阿と過ごしたひと時に、ぼんやりと思いを馳せていた。引越しから2週間ほど経ち、由理阿が落ち着きを見せ始めていた頃だった。

 朝っぱらから容赦なく照り付ける灼熱の太陽からのがれて、エアコンの効いた室内でシャンパン片手におしゃべりをしながら、ネットショップで下着を選んでいた時だった。 
 目覚まし時計の音が聞こえてきたかと思うと、すぐに止まった。すると、みしみし足音がして、ザーッとトイレの水を流す音がした。
「ねえ、由理阿、ここって隣の人の生活音がもろ聞こえてくるんだね。それにしても、もう9時だよ。こんな時間に目覚ましってのもね」
「まあそっち側は隣との間が薄い壁だけだから、仕方ないよ」
「由理阿って、こういうの気にならないほう? あたしだったら、結構ストレス溜まりそう」
「------越して来たばかりの頃はね、たまに早い時間に寝た夜には、前の通りをトラックが通っただけで目が覚めたものよ。そんなこと引っ越す前には想像もしなかったけどね------。今はもう慣れちゃったけど」
「ねえ、由理阿、隣って一人じゃないの?」
 壁に近づき、耳をそばだてている。
「沙羅、ちょっと何してるのよ?」
「だって、話し声が聞こえるんだもん」
「そう、沙羅の言う通り。一人暮らしよ」
「じゃ、誰と話してんのよ?」
 一瞬の沈黙の後、由理阿が口を開いた。
「独り言言ってんじゃない」
「えっ、でもまだ話し声聞こえてるよ。ちょっとおかしいんじゃない? そもそもこんな時間に起き出してくるなんて、学生? そうじゃなかったら、どんな仕事してるんだろう?」
 沙羅の質問ははぐらかされた。
「沙羅、親からの仕送りとあたしのバイト代から逆算して、あたしが払える家賃ってこれくらいなんだ------」
 そう言うと、由理阿は顔をしかめた。話題を逸らそうとしているようだ。そこで一呼吸置いて続けた。
「初めてこのアパートを見た瞬間、得体の知れない外観が醸し出す、一種独特の雰囲気に魅せられて、こんなところに住めたらいいなあって思って、駄目でもともとで聞いてみたら、たまたま一部屋空いてて、家賃も安かったから、即決よ。条件がいいのに空きがあったのが、不思議でたまんなかったけど------。だから、少しくらい問題があっても、ここに越して来たこと後悔してないよ」

 沙羅は、どこか遠くから聞こえてくるような由理阿の声に、我に返った。
「ねえ、沙羅、沙羅ったら。ちょっと聞いてくれる? 昨日の晩、すっごく変な夢見たんだけど------、気になるのは、知ってる人の中に一人だけ知らない人が出てきて------」
 先ほどまで音楽を聴きながら眠そうにしていた由理阿が、急に何かを思い出したかのように話し掛けていた。どことなく浮かない顔をしている。
「えっ、ごめん。もう一度言ってくれる。ちょっと考え事してたから------」
「あのね、あたしって、元々あんまり夢見るほうじゃないんだけど、引越してからちょくちょく見るようになって、昨日の夜見た変な夢に、一人だけ知らない人が出てきたのよ」
「------そうねえ、由理阿も知ってるように、あたし前に夢占いとかにはまってた時期があって、ちょっとそういう類の本とか買ってきて読んでたこともあるんだけど------、夢って、普段抑えられてる欲求とか不満とか、そういう感情が全部出てくるものだから、案外その知らない人って、由理阿の心の中の隠された部分を象徴してたりしてね」
 一瞬戸惑ったが、なんとか取り繕った。
「ふーん、そういうことか」
 由理阿が力なく呟く。
「あっ、それとね、別の解釈では、前にどこかでその人と擦れ違ってるかもよ。由理阿が意識的に思い出せないだけで、心の深い部分にはちゃんと記憶されてるのかもね」
「え――、どこかで会ってるって? そんなことって------」
「信じられないって? それで、相手も由理阿の夢を見てたりしてね」
「ちょっと、沙羅、何言ってんのよ」
 一瞬、声を詰まらせた。
「本当のこと言うとね、あたし怖いんだ。すっごく嫌な予感がするのよ、何か悪いことが起こりそうで」
 そう言うと、表情を曇らせた。
「由理阿、そんなに恐ろしい夢だったの?」
 沙羅は体の向きを変えて、隣に座っている由理阿を見据えた。
 由理阿は平静を装っていたが、その目には恐怖の色が浮かんでいた。
「ねえ、どんな夢か話して------」
 沙羅がそう言い掛けた時、列車は由理阿の下車駅に到着しようとしていた。
「今度またうちへ遊びに来てよ。そん時ゆっくり話すから」
 よろよろと立ち上がった由理阿は、バランスを崩して危うく倒れそうになりながらも、 ドアが閉まる寸前にかろうじて下車した。

 北口改札を出た頃には、いつものペースを取り戻しつつあった。タクシー乗り場の列を横目に、線路に沿って左手に進む。
 急行停車駅のわりには、駅前商店街はこじんまりとした店が多く、全体的にいたって静かな雰囲気が漂っている。飲み屋も少ないので、酔っ払いを見かけることも稀だ。
 問題は、深夜のコンビニ前でたむろする若者たちだ。何をするわけでもなく、死んだようにじっと地べたに座っていることもある。
 今夜も店の前の駐車場がたまり場になっている。関わりたくないので、目を合わせないようにして足を急がせる。
 すぐに、踏切が見えてきた。踏切といっても、歩行者と自転車専用で、幅2メートルほどしかない。
 今夜はラッキーかなと思っていると、運悪く警報機が作動し、ゆっくりと遮断機が下りてきた。交互に点滅する赤いライトと「カンカンカン」と鳴り響く警告音のせいか、暗示に掛かったように、ふらっと踏切の中の空間に吸い込まれそうになる。今までこんなことは一度もなかったのに------。

 アパートの前に辿り着いた時には、午前零時半を回っていた。
 土曜日の深夜だというのに、電気が点いている部屋は、2階の右側の真中の部屋、由理阿の隣だけだ。
 アパートの目の前の大家の家も闇に溶け込んでいる。アパートに負けないくらい古い木造建築だ。
 切れかけた蛍光灯がチリチリと耳障りな音を立てる、アパートの中央階段を上ってすぐ右側。ひっそりとした部屋の中に転がり込むと、暗闇の中をひんやりとした空気が流れていた。いつもなら夜更けでもむっとしているのに------。
 不思議に思っていると、体をすーっと冷たいものが駆け抜けた。
 サッシ戸を閉め忘れて出たのかなあ?
 そのまま電気も点けずにベランダに駆け寄り、アイボリーのレースのカーテンを少し開ける。
「何だ、ちゃんと閉まってんじゃない。それにしても、何か変だな」
 小さく呟きながら、ふと外を眺める。
 駅前商店街の灯りも消え、まだ電気が灯っているのは、駅と踏切とコンビニくらいのものだ。
 辺り一面静まり返った深夜に、暗闇の中で踏切が浮かび上がっている。駅への行き帰りに毎日渡る、慣れ親しんだ踏切が、なぜか遠い存在のように感じられた。
 踏切から目を逸らそうとした瞬間、何か黒い人影がこちら側に渡ってきたのが、視界の
端に見えた気がした。目の錯覚かなとさして気にも留めずにいると、いきなり左足首に激痛が走った。足首を誰かにつかまれているという感覚で、足が動かせない。凄まじい力が掛かっているのに、恐ろしくて足下を見る勇気など出てこない。
 誰か助けて! よりによって左足だなんて。
 声にならない悲鳴を上げていた。
 そのうち、あまりの恐怖に堪えられず、その場で気を失ってしまった。