それからチエミが柏田のマンションを訪れることはなかった。

柏田と校舎の廊下ですれ違っても、チエミは視線を合わせなかった。



桜の蕾が膨らみ始めた頃、昼休みの教室で、同級生の女生徒達が何やら騒いでいた。

「カッシーが…。」
「嘘ショック。」
などと聞こえたので、チエミは思わず立ち上がりそのクラスメイトたちに声を掛けた。

「カッシー、学校辞めるんだよ。パリに絵の修行しに行くんだって。河井さんもカッシー好きなんだっけ?」

無邪気にクラスメイトは言った。




チエミが最後に柏田と会話を交わしたのは、修業式の後だった。

ひと気のない校舎の廊下を向こう側から柏田が歩いてきた。

チエミは視線を逸らした。

すれ違いかけて、チエミは身をパッと翻して柏田に話しかけた。

「カッシー、パリに行くって本当なの?」

無意識の行動だった。

今まで柏田をそんな風に呼んだことはなかったのに、自然に出てきた。


柏田は一瞬驚いたように目を見開いたが、以前のように優しく頬笑んだ。

「そうなんだ。大学時代の先輩がパリでデザインの仕事してる。その手伝いしながら、絵を描こうと思って。」


柏田とチエミが恋人同士だったのは、今では幻だったかのようだ。


「河井も元気でちゃんと勉強しろよ。今、大事だからな。」


柏田は教師らしく言い、チエミは柏田の顔を見つめる。


その茶色がかった髪にも切れ長の目元にも、もうチエミには触れることができない。

…もう「慶」と呼ぶことも。


「チエミは人の顔、じっと見るのクセだな。」

一瞬、男にしてはしなやかな柏田の手がチエミの頬に優しく触れた。

「じゃあな。」

柏田は右手を高くあげ、去って行った。