キリが朝の手伝いに顔を出してユファから事情を聞くと、大急ぎで馬車を用意してきた。
 この村から馬車で半時ほどで斎場につくと聞いた。
 隣町の外れにある斎場は、村で死者が出ると使われるとユファが教えてくれた。
「あたしが行ってもいいんだが」
「いえ、あたしに行かせてください」
 ユファを遮るように強い言葉が出た。
「気の済むようにしといで」
 肩に置かれた手は温かかった。
 カリナは泣いたまま食事をとらないと聞いた。
 微熱だったのが、さらに上がり、ユファは付き添っていると言ってくれた。
 少しして戻ってきたキリが連れてきたのは馬車だけではなかった。
 馬車の乗り口の前に、男が立っていた。
 赤ん坊を抱いたまま近づく女の身体を軽々と持ち上げ、馬車に上げる。
 それから、男も乗り込んできた。
 柔らかなおくるみに赤ん坊を包み込んだまま、女は黙って片隅に座り込む。
「行くぜ」
 キリの声が聞こえて、馬車は動き出した。
 傍らには男が黙って座り込んでいる。
 ただ黙って、そこにいる。
 いつだって、そうしてくれた。
 だから、自分も黙っていた。
 みっともない自分を、全て黙って受け入れてくれる男。
 それが、憐れみなのが、今はありがたい。
 きっと誰よりも、自分の弟への気持ちをわかってくれる。

 これは、贖罪なのだ。

 あの時できなかった、やり直し。
 弟にできなかった事への。
 勿論、この赤ん坊はリュマではない。
 それでも、リュマにできなかったことをしてやれる。
 傷ついた自分のために赤ん坊を利用するなんてとも思うが、自分には必要なのだ。
 そしてきっと、カリナにも必要だったのだろうと、ふと思った。
 自分が金を盗んだせいで死んでしまったリュマと、この赤ん坊を重ねていたのはカリナもきっと同じだ。
 いずれ死ぬとわかっている赤ん坊をわざわざ拾い、治療を受けさせるために来た。
 無駄だとわかっていながら、それでも。
 それが、カリナの贖罪であり、許しなのだ。
 最後に誰かに何かして、死にたかったのだろう。
 今はもう、カリナに対する複雑な思いはなかった。
 ただ、この腕の中にいるこの子を、安らかに死出の旅へと導いてやりたい――それだけだった。



 馬車が止まった。
「着いたようだ」
 男が馬車からひらりと飛び降りる。
 女が立ち上がって降り口へ近づく。
 男が赤ん坊を抱いている女を抱え、降ろしてやる。
 町はずれの斎場は、ひっそりとしていた。
 煉瓦造りの建物から顔を出したのは、老夫婦だった。
 女の抱いているおくるみを見て、老婦人は祈るように手を重ねた。
 老人はおくるみをのぞき込み、女に向かって問うた。
「名は?」
「――ありません」
 老人はふむ、と首を傾げた。
「では、名を付けてやりなさい。名がなければ、天の門をくぐれない。どこにも行けずにさまよってしまう」
「え……?」
 驚いて、咄嗟に女は男を見る。
「――」
「リュマ」
 代わりに、男が呟いた。
 老人は、優しく微笑んだ。
「いい名だ。東の言葉で、『慈悲《リュマイナ》』をあらわす古語からとったんだな。どれ、リュマ。名をもらったから、天の御使いがお前を迎えに来てくれるぞ。名を呼ばれたら一緒に行けよ」
「――」
 女の手から赤ん坊を受け取ると、老人は話しかけながら裏へと向かった。
 そこには死者を焼く祭壇があった。
 大きなものと小さなものが一つずつ。
 老人はその小さな方に赤ん坊を優しく下ろした。
 祭壇にはすでに組み木があり、花が飾られていた。
 香油が周りにかけられる。
 そして、老人は慣れた手つきで松明の火を移した。
 あっという間に火が祭壇を包み込み、組み木が燃える。
「――」
 女は不意に込み上げる感情に胸を押さえた。

 こんなに呆気なく、逝ってしまうのか。
 こんなにも簡単に、弔われてしまうのか。

 昨日まで、生きていたのに。
 弱々しくとも笑い、むずがり、泣いていたのに。
 さっきまで腕の中にいた重みが、今はもうないことに胸が痛む。

 もう一度目を開いて。
 その声を、聞かせて。
 小さな手で、髪を掴んで。
 リュマ。
 リュマ。

 名前さえなかった赤ん坊を、心の中だけで、弟の名で呼ぶ。
 炎が、全てを包み込んでいく。
 浄化の炎に包まれて、今、きっとあの子は天の御使いとともに、天界へと旅立つ。
 哀しみも、苦しみもない天上の楽園へ。
 それでも。
 駆け寄って、その身体を火から抱き上げたかった。
「……」
 ふらりと前に踏み出しかけた身体を、逞しい腕が抱きすくめた。
 伸ばした手は、届かない。

 もう一度。
 もう一度だけでいい。
 ほんの一瞬でもいい。
 最後のお別れをさせて。
 その頬に、触れさせて。

 だめなら、せめて一緒に連れて行って。

「リュマ……」

 堪えきれずにもれた言葉。
 それは、どちらを呼んだのだろう。

 どちらを想って、泣いているのだろう――




 赤ん坊は、手の平にのせられる小さな箱に入れられて戻ってきた。
 女は、それをしっかりと胸に抱いた。
 帰る馬車の中でも、男は何も言わなかった。
 女も言わなかった。
 治療院に着くと、ユファが外で待っていた。
「先生……」
「リュシア、大丈夫かい?」
 ユファの声は、いつも自分を落ち着かせてくれる。
 女は箱を胸に抱いたまま、ユファに駆け寄る。
「頑張ったね――よくやったよ」
 優しく抱きしめられて、安堵する。
「つらいなら、渡しに行くのは引き受けるよ。どうする?」
「いいえ。あたしが行きます。最後まで、きちんと終わらせたいんです」
「――そうか」
 ユファが優しく身体を離す。
「じゃあ、行っといで」
 頭を下げると、女はカリナの部屋へ向かった。
 カリナは真っ赤な目をしていたが、もう泣いてはいなかった。
 女が黙って差し出した小箱を、両手で受け取る。

「ありがとう……」

 小さな小さな箱を、カリナは愛しげに頬に押し当てた。
 それは、赤ん坊の亡骸を抱きしめていた女と、同じだと、思った。



 次の日、カリナは消えていた。
 整えた寝台の上に、小さな革袋に入った金がおいてあった。
 治療代には、いささか多すぎた。
 おそらく、今までの稼ぎの全てだろう。
 動物が死期を悟って姿を消すように、カリナもまた己の死に際を誰にも見せたくなかったに違いない。
 ここに留まっていたのは、赤ん坊のためだった。
 その証拠に、女の渡した小箱だけが、消えていた。
 それ以外、カリナは何も持っては行かなかった。
「――」
 カリナには、許しなど必要ないのだ。
 すでに、死の許しが与えられているのだから。
 死にたい者にとって、これ以上の許しはあるまい。

 いつかカリナも、失われた家族と会えるといい。

 自然と、そう思えた。
 女は、金の入った包みを持ってユファを探した。
 カリナがいなくなったことを報告しなければいけない。
 診療部屋にはいなかった。
 自室だろうかと静かに診療部屋の斜め向かいの部屋へと向かう。
 扉は僅かに開いていた。
 声をかけようとしたその時、部屋から微かに酒の匂いがした。
「先生?」
 女は静かに扉を開けた。
 ユファは窓の方を向いていた。
 こちらに背を向けていても、右手に持っていた酒瓶が見えた。
「リュシア、どうした?」
 酔いを感じさせないしっかりした声が響く。
「カリナが、出て行きました。お金をおいて」
「――そうかい。まあ、そうだろうと思ったよ」
 振り返らないユファを、女は泣いているのかと思った。
「先生、どうして朝から」
「ん? ああ、酒かい? 大丈夫。酔ったりはしてない。大分昔から、いくら飲んでも酔えなくなったのさ。それでも、やりきれないときは飲んじまう。わかってて医者になったってのに、いつまでたっても慣れないもんさ」
 振り返ったユファは、泣いてはいなかった。
 微笑っていた。
 死を見続けてきた者が見せる、諦めたような笑みに、女はユファの静かで深い哀しみを垣間見た。
「先生……」
 生きることのできなかった女子ども、弱き者を、何人も何人も見送る日々。
 それは、医者として、どんな苦しみなんだろう。
 救いたいと願いながら、自分の無力さを思い知らされ、何度涙を流したのだろう。
「先生は、なぜ続けるんですか? 辛くないんですか?」
「辛いよ。でも、死を見送るだけじゃない、救う喜びも、確かにあるから、こうして続けていられるんだよ」
 ユファは酒瓶をそっと机においた。
 そして、その手をじっと見た。
 女はそんなユファをじっと見ていた。

「無力な自分にも、少しでもできることがある。全てを救うことなんてできないけれど、それでも――ってね」

「――」
 そうだ。
 全てを救うことなどできないのだ。
 誰も。
 今、痛いほどにそれを感じている。

 それでも。

 救いたいと願うことを、どうしてやめられるだろうか。