「そなたはもうわかっているはずだ。姫夜」
 伊夜彦が立ち止まり振り返った。
 あたりを包む闇は深くなっていた。
「もうこのあたりまで来ればよいだろう。教えたはずだね。その名を唱えるときがきたのだ。すべてを祓い流し去ることのできる女神の御名を。女神を呼び出す祝詞を――」
 姫夜は激しくさえぎった。
「どうして――なぜ、兄さまが逝かねばならないのです。この厄災はモモソヒメが生み出したものだ。それなのに何故! わたしには……できない、わたしには――」
「姫夜、聞きなさい」
「いやです! 生きていれば、ふたたび相まみえることができると、わたしはそのことばだけを信じて――」
 闇が揺らいだ。姫夜ははっとしたように兄の袖にすがった。
「姫夜――!」
 背後からするどいハバキの声が闇を裂いて響いてきた。ふりかえって姫夜は大きく目を見張った。たしかにそこに立っているのは、白くかがやく鎧姿のハバキだった。抜き身の剣をひっさげ、けわしい顔つきで姫夜と伊夜彦をにらみつけている。伊夜彦やヤギラの姿が透き通っているのに対し、ハバキの姿はくっきりと、手をのばせば触れられそうなほどはっきりとしていた。
「どうして、ここに……」
 あえぐように姫夜が云った。伊夜彦がやさしくささやいた。
「かのものはそなたの王だからだ。そして、見よ。蛇神が守っている」
 目をこらすと、たしかにハバキを取り巻いている光のなかにうっすらと鎌首をもたげている蛇の姿が見えた。蛇のからだはうねうねと限りなく地上へとむかって伸び、その光の帯の先は見えなかった。
「蛇神がここまで導いたのか……」
「姫夜、そのものから離れろ」
 ハバキはけわしい声で云って、ゆっくりときらめく剣を両手に握り、かまえた。伊夜彦はしずかにハバキを見つめ返した。
「いけない!」
 姫夜が叫ぶのと、ハバキが踏み込んで剣を繰り出したのとは、同時だった。