この事件が起こる10日ほど前ののどかな日、JR大糸線の
ジーゼル車に塩山清一と亜紀の父娘が乗っていた。

木崎湖から中綱湖、青木湖を経て白馬山麓をゆっくりと走る、
すばらしい眺めだ。清一が遠くを指差して、

「亜紀、見てごらん。あの山の上のほう」
「わあ、きれい!まだ雪があんなに残ってる」
「ああ、よく見てごらん。あそこ、何の形に見える?」
「お馬さん!お馬さんにそっくり!」

「ああ、お馬さんにそっくりだねえ。あれを目印にしてこの
村の人は田植えをするんだよ、だからここは白馬」
「ほんと?」
「ああ、ほんとさ」

あまりの美しさに、亜紀は大きなため息をついた。白馬の
次の駅が信濃森上の駅だ。白馬駅でほとんどの人が降りて
しまって、がらがらになった車内で二人降りる準備をする。

亜紀は小さな赤いリュックを背負い、清一も大きなリュック
を棚から下ろす。

「おばあちゃん、元気かな?」
「そうだな。去年おじいちゃんが亡くなって一年ぶりだ
もんな。でもそう変わっちゃいないさ」
「そうだよね」

仲のよい父と娘、顔を見合わせて微笑んだ。駅から踏み切り
を越えて田舎道を岩岳のほうへ歩む父娘の後姿。白馬八方
山麓を背景にそのシルエットが美しい。