人は勝つために生まれてきた。
故に、その人に乗り越えられない試練は与えられないと説かれる。
又そう誓って生まれてくるのだという。
苦しみの渦中にいる時、無意識に人は自らブレーキを生み、それをコントロールする能力を持っている為、器用な生き物だと認識されているのだろうか。
その枠に入ることのできない私は不器用と呼ばれるのだろう。
人は生きるほど悲しみや心の傷を積んでいく。
同時に数々の分岐点にも挫折という壁が待ち受けている。
私の足元に引かれたスタートラインはいじめだった。
時期でいえば三年間。一生のうちの三年という月日は短い。だけど考えてみてほしい。たった三キロの距離を、肺が弱く、ジョギングをやっとの思いでこなす少年が、プロのマラソン選手と同じ速さで強制的に完走した結果残る体への負担。
走っている間はあまりの苦しさで正常な状態、感覚でいることなど到底難しい。落差なんかを予測する余裕など持てるはずがない。
三年間という月日の道に迷っても、道はいつかは抜けられるもの。けれど歩いているうちに気づくのです。どこまでも続くこの道には出口がないのだと。
いじめという名の後遺症を患うのに、弱いや大袈裟などの次元ではないと思うのです。
苦しみを言葉にしない限り、何も届かない。何も感じてもらえない。何も理解されない。私には空気を押し潰すものが空中に浮いているという不気味な光景に見える。
だからおいって何とか閉じた壺の蓋を、再び開けるという行為は恐怖という名の強迫観念に追い詰められるだけなんだ。
ましてや自分の手で開けるなどキチガイではないかと思う。
どんないじめでも、過ぎ去ればそれは過去。
古い記憶は脳の奥へとしまわれて、目まぐるしく新しい記憶と取り換えられていくように人間の脳は出来ている。
そんな事は現実人生に何の損傷もない場合に過ぎない。時間が心の傷を癒していくなど優しさに汚れた罪だ。
“目に見えない苦しみは、重い”
私の後遺症をここに言葉で残して、人生に足跡をつけるのです。
誰が見ても目に見える足跡を、自分の手で残すのです。