『ごめん、急に仕事入っちゃった。
 十二時までに行けないかも。
 一応終わったら連絡するけど、待っててくれますか?』

『もう出ちゃってた?
 やっぱりもう一時間くらいかかりそうです。
 本当にごめん、俺から誘っておいて。
 嫌じゃなかったら、今度お詫びさせてください。』


頭の中で勝手に加原の声で再生されたそれが、やたらと優しい声で、今度こそ本当に泣きたくなった。

こんなふうに話しかけてほしいと思っているのかと。
こんな想像が容易にできるくらいに、加原の声を、耳が拾い続けていたのかと。

(私なんかが、加原さんみたいな人と、一緒にいちゃいけないのに)

もう手遅れだ、と思った。
本当はこうなる前に、こんなに居心地が良くなる前に、こんなに好きになる前に、全部捨ててどこか知らない場所にでも逃げるべきだったのだ。

名波に突き付けられた、名波が自分で突き付けた現実は、やたらに硬質で、光沢のない、真っ黒な壁みたいだった。


加原は今ごろあの学校で、当時を知る人から名波の過去を聞いているだろう。
名波が何をされて、何をしたのかを。



平河名波が高校時代、同級生である交際相手を殺した罪で、五年間も刑務所に入っていたことを。



携帯電話が鳴っている。
名波は、柔らかく点滅する白い光を見ながら、凍ってしまったように身動きが取れずにいた。