あのこになりたい

母は兄の体を揺すった。


「ごめん…。でも、後悔したくないんだ。若菜が産みたいと言う限り、自分の子どもの命と引き換えにしてまで守りたいものなんて俺にはないから」


兄はそう言った。



その瞬間…


兄が吹っ飛んだ。



父が兄を殴った…


初めて見る光景に私だけでなく母も怯んだ。



「社会はお前が考えてるほど甘くないぞ。もうお前に引きこもれる場所はない。自分の足で歩いた事もない奴に家族を養って行けるのか?」


父は顔を真っ赤にしている。


こんな父を見るのは初めてだった。


兄は一瞬顔が青ざめたけど、すぐ父に向き合ってまた床に膝をついた。


父をまっすぐ見る瞳に兄の覚悟が見えた気がした。


「わかってる。もう逃げない。絶対に幸せにする覚悟はあるから。若菜の期待にずっと応えてやれず逃げてきたから…今度こそは期待に応えて幸せにしてやりたいんだ。だから…許して下さい!」


兄は頭を下げた。



父は黙っている。



「お願いします!」


兄はもう一度、頭を下げた。



しばらく沈黙が続き、兄の頭に血が上り顔が赤くなってきた。


私は自分の鼓動で息苦しかった。


母も不安そうな表情で父と兄をただ見つめている。


父は兄の頭をずっと見下ろしている。兄を殴ったその手は小さく震えていた。


重苦しい空気の中で、時計の針の音が妙に耳についた。


体が勝手に右へ左へと揺れそうになるのを耐えながら、立ち尽くす足にだるい痛さを感じ始めた時…


「弱音を吐くなよ、絶対に。何があっても」

父の低く少しかすれた声が響いた。