魔王に甘いくちづけを【完】

「―――っ、でも私は行きたくありません。下ろして下さい」


強く言うと、青年の歩みが少し緩まった。

その時、遠くの方から獣の遠吠えが聞こえてきた。

オークションのとき聞いたような伸びやかな声。

森中に響き渡り、それに呼応するようにあちこちから遠吠えが聞こえてくる。

それは、狼のものだとすぐに分かった。



「ち、気付かれたか――――」



青年が悔しげに舌打ちしたあと、体を支えている腕の力がぐっと強まった。



「口をしっかり閉じていろ。舌を噛むといけない」


そう青年が呟いたかと思ったら、流れる景色が急に早くなった。

獣道を走り始めたのだ。

飛んでいるのかと思うほどに体が上下せず、振動が全く伝わってこない。

森の中を走りに走り、木々の向こうに建つ家が2件ほど後ろに流れていく。



やがて向かう先に開けた空間が垣間見えるほどになった時、行く手に一つの影がサッと飛び出してきた。


息も荒く金色の目を光らせ、両手を広げて立ち塞がっている。

その姿を見止めた青年がぴたと止まった。


あれだけ走ったのに、息一つ乱れていない。

瞳は真っ直ぐ前を見据え、怖い顔をしていた。


腕の力はますます強まり、ぐいっと胸に寄せられ、とても離してくれそうにない。



「お前!何処に行くつもりだ!?」



聞いたことのある声に驚いて、なんとか振り向いて見ると、見慣れた人が青年を睨んで立っていた。

すぐには信じられなくて、口をパクパクさせてしまう。



――いつの間に帰ってきたの?

もしかして、私を助けに来てくれたの?



「・・・バル!?」



沢山の人が木の陰から飛び出してきて、気付けば廻り中を囲まれていた。

青年の動きを封じ込めるようにジリジリと近寄っている。


緊迫した空気。

遠くに聞こえていた鳥の声も止んでいる。

静まり返った中に青年の唸るような、脅すような響きを持つ声が響いた。



「そこを、退け」

「それは、出来ん」


「では、押し通るまでだ」



不敵な笑みを浮かべる青年が一歩、また一歩とバルのいる方へ近付いて行く。

その後を追うように背後からの包囲が、じり、じり、と狭まってくる。



皆青年からただならぬ気配を読みとっていた。

瑠璃の森が受け入れたということは魔の力は弱いはず。

だが、何かが違う。

底知れぬ不気味な気を放っているのだ。

それは、青年自身からではなく、どこか遠くから来ているような。


バルを始め、この場にいる者全員がそう感じていた。


ただ一人、ユリアを除いて―――



「・・・バル、助けて」