先輩が仮眠室のドアを開くと、仕事部屋の照明がひどく眩しく感じた。
 思わず目を細めると、
「暗闇の世界から生還おめでとう」
 と、秋斗さんの明るい声に出迎えられた。
「司、翠葉のこと泣かしただろ……」
 ダイニングのスツールに座っている蒼兄が少しむっとした顔をする。
 こういう表情は家ではめったにお目にかかれないだけに、不謹慎ながらも少し新鮮……。
 先輩は、
「無事生還したってことでチャラで」
 さらりとかわした。
「翠葉、大丈夫か?」
 うかがうように訊かれ、
「うん、大丈夫。司先輩が珍しく優しかったから、なんだか得した気分だった」
「翠葉ちゃん……司の呼び方変わった?」
 秋斗さんに訊かれ、
「はい。本当は同い年だから先輩をつけて呼んでほしくないって言われたんですけど、それだとほかの人にも年がばれちゃうから、司先輩で妥協してもらうことになりました」
「そっか……。司、どさくさに紛れて距離縮めたな」
「さぁ、なんの話だか……。俺、生徒会の仕事に戻るから」
 と、先輩は足早に仕事部屋から出ていった。
 私はというと、秋斗さんがお茶を淹れなおしてくれ、それを飲んでから帰ることになった。
「今日は本当にごめんね」
 帰る間際になっても秋斗さんに謝られる。
「いえ……もとはと言えば私がいけなかったので、もう謝らないでください。次に謝ったらペナルティにしますよ?」
 さっき司先輩に言われたことを代用してみた。

 秋斗さんの部屋を出ると、生徒会メンバーも帰りの用意をしているところだった。
 図書室はまだ写真だらけの状態で、しばらくはこの状態が続くんだろうな、と想像ができる。
 横目に見ていると、蒼兄も同じように写真を見ていた。
「翠葉……お前ずいぶんと撮られたなぁ……」
 引きつり笑いで言われる。
「私もびっくりして腰抜かしちゃった……。でもね、司先輩と桃華さんたちが念書集めてくれたから」
 と、ダンボールを指で指すと、蒼兄もその箱を目で確認した。
「司、手間かけて悪い。ありがとな」
 パソコンをシャットダウンさせていた先輩がこちらを向き、
「仕事だからかまいません」
 心なしか表情が柔らかかった気がして、なんだか嬉しかった。

 帰りにミネラルウォーターを買ってもらって車の中で飲む。
 蒼兄はいつもと同じ缶コーヒー。
「司、いいやつだろ?」
「うん。時々怖いけど、でも、今日はとても優しかった」
「格好いいけど意地悪って印象は変わった?」
 入学して間もない頃の会話を思い出す。
「そうだなぁ……。今日は優しかったし、もともと優しい人かもしれない。でも、基本は格好いいけど意地悪な人、かな? 次に、藤宮先輩って呼んだらペナルティつけるって言われちゃった。そのあたりは意地悪でしょう?」
「司らしいって言ってやってよ」
 車の中に笑いが起こった。
「そういえば、来週の日曜日、秋斗さんと森林浴に出かけることになったよ」
「あ、お詫びって言ってたやつ?」
「うん。すっかり忘れてたんだけど……」
「秋斗先輩と一緒なら安心だな。……いや、ちょっと待てよ? それは安心していいのか? なんか騙されてる気が……。いや、でもあの人に限って……そうだよ、相手はこの翠葉だし……」
「蒼兄何言ってるの?」
 訊くと、取り繕うように笑顔を作った。
 家に着くと七時を回っていて、栞さんに「遅かったわね」と声をかけられる。
「今日は一日秋斗くんのところで課題だったのでしょう? 話してばかりで課題なんか終わらなかったんじゃない?」
 夕飯をテーブルに運びながら栞さんに訊かれる。
 今日はきのこの和風スパゲティ。
 バター醤油は蒼兄の好きな味付けで、週に一度は品物違えど、バター醤油味のおかずが食卓に並ぶ。
「そんなこともなかったですよ? 問題集も全部終わらせてきたし。秋斗さんはお仕事も電話も、なんだか忙しそうでした。なんでも、会議にお見合いがついてくるとか?」
 電話の内容を思い出しながら話すと、
「あぁ、きっと重役に無理矢理お見合いの場をセッティングされたか何かね」
 と、苦い笑みをもらした。
「そういえば、楓くんもお見合いを蹴ったって話を聞いたわねぇ……。そっちは病院の、大手取引先の社長令嬢って言ってたかしら?」
 サラダを取分けながら口にする。
「楓さんって……司先輩のお兄さんで湊先生の弟さんの……?」
「そうよ。翠葉ちゃん、病院で会ったことない?」
 病院で楓さんって――え……?
「あの……麻酔科の楓先生ですか?」
「そうよ」
「嘘……」
「あら、知らなかったの?」
 コクコクと頷く。
「名前は知っていたけれどまさか同一人物とは思っていませんでした」
「そうね、湊と司くんはそっくりだけど、楓くんだけちょっと顔のタイプが違うものね。湊と司くんはお父さん似なのよ。で、楓くんはお母さん似なの」
 湊先生と司先輩のご両親はどれほど美形なのだろう……。
 お父さん似、ということは、あの顔がもうひとつあるの?
 それはなんて心臓に悪い環境だろうか……。いや、もしかしたら目の保養し放題……かな?
 言われてみると、楓先生と秋斗先生はとてもそっくりだった。
 顔の系統が秋斗さんと海斗くんと同じ……。
 物腰が柔らかいのは三人に言えることだけれど、楓先生はより穏やかな印象で、物静かな人、というのがしっくりくる。
 そうこう考えていると、匂いにつられて蒼兄が二階から下りてきた。
「そういえば、今はなんともないみたいだけど、今日、夕方頃に一度ものすごく体温が下がったけど何かあった?」
 栞さんに顔を覗き込まれ、
「あ、実は桜香苑でうっかりうたた寝をしてしまって……」
「なるほど、それであんなに体温が下がったのね? びっくりして電話しようかと思ったら秋斗くんから自分が行くからって携帯にメールが届いたのよ。大事には至らないと思っていたんだけど」
 と、話してくれる。
 蒼兄がそのときのメールを見せてくれた。


件名:バイタルチェック by 秋斗
本文:俺が行く


 とても短い、ただそれだけのメールだった。
 蒼兄の説明によると、バイタルチェックの表示画面からチェックしている人たちの携帯に一斉送信できるようにメール設定がされているのだとか……。
 そのときの件名などは入力しないで済むように、「バイタルチェック by ○○」と送信者の名前が表示されるようになっていて、入力するのは本文のみでいいらしい。
 おまけに、バイタルチェックの画面にはメール送信ツールのほかに、百十九番へのワンタッチコールという機能も備わっているとのこと。
 そんなことは初めて聞いた。
 私はチェックされるだけされて、そのシステムがどのようなものかは知らされていなかった。
 聞けば聞くほどに痒いところまで手が届くシステムに驚かされる。
「俺もびっくりしてGPSで場所を確認するところだったんだ。そしたらアクセスしている最中にこのメールが届いた」
 本当にごめんなさい……と、心の中で平謝り。
「ま、びっくりもするけれど、これのおかげで私もずいぶん安心していられるし、出勤時間もゆっくりになって楽させてもらってるわ」
 栞さんがフォークにパスタを巻きつけながら言う。
「確かに……。すぐに手を打つ手段があるっていうのは本当に助かる」
 いいのかな、悪いのかな……。数値の変動で周りの人が一挙一動しているかと思うと、いらぬ気を遣わせているんじゃないかと思ってしまう。
「翠葉ちゃん、そんな顔しないの。私はこれを作ってくれた秋斗くんに感謝してるわよ?」
「俺も。ないよりは断然あったほうがいい」
 ふたりにじっと顔を見られ、
「また、どうしようもないことを考えていそうだから」
 と、蒼兄が笑った。
 感情が駄々漏れらしいこの顔はどうにかならないものだろうか……。
「えと……そんなこんなのやりとりから、司先輩にばれちゃいました」
「あら、どうして?」
「秋斗さんが迎えにきてくれたとき、パソコンのモニターにモニタリングのウィンドウを開いたままだったらしくて、それを司先輩に見られてしまったんです」
「それで話してあげたの?」
 と、訊かれる。
「はい……」
「栞さん、翠葉が仮眠室に篭ること一時間半ですよ? 結局は司に懐柔されて出てきましたけど」
 蒼兄がくつくつと笑う。
 懐柔……私、懐柔されたのかな。
「司くん怒ってなかった? 自分だけ仲間はずれにされたって」
「怒っていたというか……」
 私が首を捻ると、
「いや、あれを怒ってなかったと言うなら、何が怒っていることになるのかを教えてくれ」
「あら、蒼くんは睨まれた口かしら?」
「図書室に入った途端すごい冷たい目で見られました。俺、何か悪いことしたのかと真面目に考えましたよ。そしたら翠葉が泣きついてきて、話を聞いて視線の意味がわかったしだいです」
 栞さんはクスクスと笑う。
「あの子、人一倍プライド高いし、大人の中で育っちゃったような子だから、子どもだからとか、何かにつけて蔑ろにされるのは嫌なのよね」
「……でも、私には怒りませんでしたよ?」
「なんて言われたの?」
 興味津々といった感じで栞さんが訊いてくる。
 蒼兄も、
「俺にはあんな視線を向けてきたのに?」
 と、言う始末。
「最初に電話がかかってきたんです。でも、私、出られなくて……。そしたらすぐにメールをくれました」
 テーブルに置いてある携帯を先ほど蒼兄がしてくれたようにふたりに見せる。
「司らしい文章」
「すごくあの子らしいメールね」
 ふたりの反応に自分も頷く。
「これはお話しなくちゃいけない気がして、すぐに電話かけなおしたんですけど、面白いくらいに喋れなくて、司先輩だけが話してました」
「あぁ、それで司が仮眠室に入ることになったんだ?」
 蒼兄がサーモンとレタスのマリネをつつきながら言う。
「うん。電話だと勘違いされる気がするからって」
「勘違い?」
 栞さんが不思議そうに訊くので、電話の内容を話した。
「ふーん……司くんが気になるから、って言ったのね?」
 なぜか、栞さんはそこ一点を確認してきた。
「はい。でも、私はそれを体調を心配されて気にされているっていうふうにとっていて……」
「あぁ、それで勘違いされたくないからって話になるんだ?」
 蒼兄が、「なるほど」といった感じで話す。
「そう。それで仮眠室に来てくれたの」
 仮眠室に入ってからの会話をふたりに話すと、
「翠葉、それって……」
「蒼くん、ダメよ」
 蒼兄が何かを言おうとしたのを栞さんがにこりと微笑んで制止した。
 蒼兄は、「あぁ、そうか……」って顔をして口を噤んだ。
「あとは?」
 と、栞さんに訊かれ、
「湊先生や秋斗さんから聞くのは癪だから話せるなら話してほしいって言われました。……全部、話しました。なんで話すのが怖かったのかも訊かれて、それも話しました」
「それで、司くんはなんて答えたの?」
「……もし私に自殺願望があったとしても、何も変わらないからって言ってくれました。死んでほしくないし生きていてほしいから、もっと自分を大切にしてくれって。……桃華さんに話しても自分と同じで何も変わりはしないだろうって」
「そう……」
 栞さんはどこか嬉しそうにふわりと笑う。
「確かに、簾条さんは司とそう変わらない反応だろうな」
「うん……だからね、中間考査が終わったら話そうかな、って思ってる。約束もしているし……」
「それは翠葉が決めることだ。けど、司の言うとおり、そんなに不安に思うことはないんじゃないかな」
 顔を上げると、目の前には優しく笑う蒼兄と、その隣には栞さんの笑顔があって、なんだかほっとした。
 人の笑顔はすごい。
 ただ、笑ってくれるだけで元気をわけてもらった気になるから。