ドアをノックしようとしたら翠葉の声が聞こえてきた。
 不安そうな、不明確なものを一生懸命言葉に変換しているような、そんな声だった。
 立ち聞きするべきじゃない。瞬時にそう思ったけれど、俺はその場から動くことができなかった。
「普通に高校へ通って、普通に友達とはしゃいで、普通に――何もなくていいから普通に毎日を過ごしたいだけなんです。でも、どうしてもできない。そのたびに周りの人に迷惑をかけて、助けられて……。すごく自分が情けなくなる。痛いのやつらいのは我慢できるの。でも、気持ちには耐えられなくなることがあります。具合が悪いとき、ひとりは嫌。寂しくて心細くなるから。でも、誰かが側にいてくれると、ほっとする反面、申し訳ないって気持ちが強くなって、自分が情けなくてつらくなる。どっちも嫌なんて――自分がどうしたいのかもわからなくて……。自分の気持ちにすら自信が持てなくなる。自分が高校に通うことで周りにしわ寄せがいくくらいなら家にいたほうがいいんじゃないか、って……。考え出すとキリがないんです。もうね、そこまで考えると、自分が消えてしまえばいいのに、と思うくらい」
 翠葉がそんな気持ちを抱えていたなんて知らなかった。
 申し訳ないって思っていることは知っていたし、周りにしわ寄せが行くなら自分が我慢すればいいと思っていることも知っていたけど――。
 自分が消えてしまえばいいなんて、そこまで思いつめているとは知りもしなかった。
 しかも、それを実際に翠葉の口から聞くとやるせなくなる。
「翠葉、今までそれを誰かに話したことはある?」
 湊さんの質問に返事は聞こえてこなかった。けど、答えはわかる。"否"だ――。
「そう……。パンクする前に私のところへいらっしゃい。いつでも聞くから。……でも、残念なことにそういう葛藤っていうのは本人にしかわからないものなのよ。周りはもっと頼ってほしいって思っているでしょう。けど、翠葉は負担になることを恐れるのでしょう? でもね、実際は負担って思うほど負担になんて思われてなかったりするし、心配している気持ちがどれほど重いと感じるものなのかなんて、心配している側にはわからないのよ。人の気持ちほど難しいものはないわ。ただ、あんたはそれを溜め込みすぎ。それが体の負担になってるのよ。心労って知ってる? あれが与える影響って侮れないのよ? 死んじゃう人だっているんだから。あんたの不整脈はそういうところからも来てるんじゃないかしら。……吐き出せるなら吐き出しなさい」
 本当に――。
 もっと頼ってほしいし弱音を吐いてほしい。
 俺にはそんなことしかできないから。
 でも、その"心配"ですら、翠葉の負担になっているとは思わなかった。
 翠葉の心労がそんなところからきているとは思っていなかったし、それが不整脈につながる要因になり得るとも思っていなかった。
「……抱えている気持ちが、不整脈につながる、んですか?」
「そう。ストレス性のものでも放置しておくと命取りよ。そういうのは治療をしても根源を絶ったわけじゃないから再発するし……。少しずつ、気持ちに折り合いをつけていこう。あんたが消えたら、あのシスコン兄貴は生きていけないわよ?」
 ……翠葉は、こんな状態の体で、自分の気持ちとどう折り合いをつけるのだろうか。
 そんなこと、できるのか?
 もしかしたら、一年前に俺が想像したものよりはるかに大きなものを背負っているのかもしれない。
 初めて翠葉の病状を聞いたとき、十五歳の翠葉がどうやってこんな症状と向き合って生きていくんだ、と不安に思った。
 けど、情緒不安定だったのは最初の数ヶ月で、そのあとは表面上ではそんなに不安定さを見せることもなく療養期間を過ごした。
 普段の生活も自分でかなり気をつけるようになっていたし、意外と早くに自分の状態を受け入れることができたのかと思っていた。
 ――とんだ勘違いだ。
 ただ、自分の中で必死に抑えていただけだった……。
「私……湊先生に会えて良かったです」
 ……俺もだ。今の翠葉に湊さんがついていてくれて良かった……。
 きっと俺たち家族には絶対に言わないであろうこと。それをいえる相手がいて、良かった。
 深い呼吸を何度か繰り返す。
 そして、改めてドアをノックした。
「はーい」
 湊さんの、低く通る声が聞こえてから室内へ踏み入る。
 カーテンの中を覗くと、昨日よりはすっきりとした顔の翠葉がいた。
 けれど、不自然に目が赤い……。
「……どう?」
「うん、大丈夫……」
 予想していた返事がいつも以上に切なく聞こえた。
「大分楽になったよ」
「三十八度半ばで大丈夫って言われちゃうんですよ。湊さん、どう思います?」
「翠葉に愛されている証拠だとでも思いなさいよ。じゃ、私は帰るわ。あと一時間もしたら紫さんが来るから」
 そう言うと、手をヒラヒラさせながら病室を出ていった。
 翠葉に視線を戻すと、熱で唇の皮が剥けていた。見るからにガサガサになっているそれがかわいそうだった。
 もしかしたら喉も渇いているかもしれない。
「水分、摂るか? 水を口に含む程度なら許されてる」
 水差しを手に持つと、
「うん、少しちょうだい」
 と、力なく笑う。
 水差しの先端を口に入れて少し傾ける。ほんの少し……一口くらいの分量。
 まだ胃へ直接流れる分量を飲ませると戻す恐れがあるから、かわいそうだけどほんの少量。
「ありがとう。冷たくて口の中サッパリした」
 水差しをテーブルに置いて、再度翠葉の顔を見る。
 その笑顔の下で、どれだけのものを抱えてる? まだ、それを抱えられるだけの力は残っているのか?
 できることなら、俺が全部持ってあげたいのに――。
「蒼兄……。私は蒼兄が大好きだからね。すごくすごく、大好きだからね」
 俺がそうであるように、翠葉も俺の表情を読み取るのがうまい。
「俺もだよ。何より翠葉が大事……」
「わかってる……。ちゃんとわかってるから、だからそんな悲しそうな顔はしないで?」
 悲しい顔――。
 俺には、今の翠葉の笑顔のほうがもっと悲しい顔に見えるんだけどな……。
「翠葉……俺、どうしたらいい? どうしたら翠葉を支えられる? 負担にならないでいられる?」
 さっき廊下で聞いていたことがばれてしまうかもしれない。
 でも――正直、もうどうしてあげたらいいのかわからないんだ。
 何をしてあげることが翠葉にとっていいことなのか。
 なんでもしてあげたいのに、何かすればすべて負担になるような気がする。
「私は……。私は、いつも蒼兄に支えてもらってばかりだよ。とても感謝しているの……。言葉だけでは伝えられないくらい。その先の気持ちはね、私の問題なの。私が自分を受け入れられないから起こる葛藤だと思う。でも、それは口にしたくないの。口にしたらお父さんやお母さんが悲しむと思う。だから口にはできないの。……もう少し時間がかかるみたい。自分の体を受け入れるのには……。でも、蒼兄のことは大好きだから」
 聞いていて涙が出てくる。
 気づけば翠葉も泣いていた。
 笑顔で泣くなんて、そんな器用なことするな。余計に苦しくなる。
 ……知ってるよ。
 翠葉はさ、何も特別なことなんか望んでいないんだ。ただ、みんなと同じように普通に過ごせたらいいって、それだけを望んでいること。
 きっと、父さんと母さんも気づいてる。けど、翠葉はそれを口にすることすら我慢している。
 もっともっと友達と一緒に行動したいのだって知ってる。電車通学したいのも知ってる。
 知っていても、それを"心配"という枷で俺や両親が縛ってる。
 実際、電車通学できるほどの体力だってない。
 翠葉はそういうこともわかっていて、そこで人に迷惑をかけるのが怖いから、だからわがままを通しはしない。
 それでも俺に負担がかかっているかもしれないと思えば、すぐにでも高校へ通うこと自体を諦めようとする。
 もっと――もっともっと貪欲になってもいいくらいなのに。
 学校生活が充実している今、本当は辞めるなんて本意じゃないはずなのに。
 翠葉が人と同じように過ごしたいと思うのと同じくらい、俺たちだって翠葉に普通のことをさせてあげたいんだ。
 学校に通って、友達を作って、恋をして――。
 世間一般の十六歳の女の子がしていることを経験させてあげたい。
 ……互いが大切に思いあっているのに、どうしてこんなにうまくいかないんだ。
 俺が側にいることがすでに負担なのかもしれない。それでも、俺は翠葉から離れられない……。
 ごめん、翠葉……。何もできなくてごめん。
 もっとしっかり支柱になれると思っていたんだ。でも、実際は錘にしかなっていないのかもしれない。
 どうしたら……どうしたらいいんだろう――。