弓道の試合は、射場と呼ばれる弓を射る場所から的場という的までの距離が二十八メートル。その脇に観覧席が設けられている。
 観覧席に使われるガラスは安全確保のため、強化ガラスが使われているとのこと。
 運よく一番前の席が三つ空いていて、私たちは最前列で見ることができた。
 弓道場に入ってからも私の震えは止まらず、しばらく桃華さんが背中をさすってくれていて、ようやく落ち着くことができた。
 我ながら情けない……。
「翠葉ちゃん、司が射場に入ったよ」
 秋斗さんの声に顔を上げる。
 射場を見ると、準備をしている藤宮先輩が目に入った。
「弓道はね、射の基本動作を八つの節に分ける射法八節というものがあるんだ」
 藤宮先輩が射場に立つと、秋斗さんはその動作のひとつひとつを教えてくれる。
「足踏み、的に向かって両足を踏み開く動作。胴造り、足踏みを基礎として両脚の上に状態を安静にかまえる。弓構え、矢を番えて弓を引く前の動作。打起こし、弓矢を持った両拳を上に持ち上げる動作。引分け、打起こした位置から弓を押し、弦を弾いて両拳を左右に開きながら弾き下ろす動作」
 一連の動作がとてもきれいだった。
「会、弓を引ききった状態で的を狙う」
 弓をかまえ、その先の的を見据える様が、少しだけ短距離走と似ている。ただひたすら、遠くのものを見つめる様が……。
「離れ、で矢を放ち――最後が残心」
「……余韻」
 ふとそんな言葉が口をついた。
「そうだね。残心の状態は余韻とも取れるね。矢を放って終わりじゃない。放った状態でしばらくは緊張を維持する。残心のあとも弓倒し、物見返し、で最後に足を閉じて終わる」
「すごいっ! 的に当たっちゃいましたよっ!?」
 はしゃぐ私に、
「あと三射残ってる。四射中三中以上が決勝に進める。まぁ、きっと外さないんだろうけどね」
 秋斗さんがクスクスと笑いながら話す傍ら、桃華さんが「ムカつくくらいきれいよね」と零した。
 でも、その気持ちはわかる気がする。
 動作のひとつひとつがとてもきれいで、神聖なものを見た気がした。
 藤宮先輩の試合が終わっても、私は射場から目が離せなかった。
「翠葉ちゃーん、戻っておいでー」
 秋斗さんの声にはっとする。
「翠葉、見入ってたわね」
 桃華さんに言われ、
「うん……だって、すごくきれいだったから……。弓道がこんなにきれいなものだとは思わなかったの」
「弓道を見るのは初めて?」
 秋斗さんに訊かれ、
「はい、スポーツ観戦自体ほとんどしたことがなくて……。蒼兄の試合を何度か見に行ったことがあるくらいです」
 まだ頭の中には弓を引く藤宮先輩の残像が残っていて、ぼーっとしたまま答えた。

 全試合が終わり、藤宮先輩のインターハイ行きが決まった。
「司も着替えたら合流するって言ってたから少し待ってよう。その間に飲み物買ってくるよ」
 秋斗さんが席を立つと、
「私もお手洗いに行ってくるわ」
 と、桃華さんも席を立つ。
 数歩歩いた桃華さんが振り返り、
「変な輩に声かけられたら携帯に一コールしなさいよ?」
「うん、ありがとう」
 見送ってから、また射場に目をやる。
 強化ガラスの向こう側には矢を回収している人がいたり、射場の拭き掃除をする人がいた。
 それらを見ながら思い出す。藤宮先輩が弓をかまえる姿を。
 まるで作法か何かみたいにきれいな所作だった。
 やっぱり袴姿の先輩は格好いいな。加えて弓道なんてやらせたらピカイチだ。
 学校で人気があるのも頷ける。でも、先輩は女の子に冷たい。
 少しは海斗くんみたいに愛想良くすればいいのに……。
 女の子が苦手なのかな?
 少し首を傾げると、顔を覗き込まれた。
「わっ……」
「そこまで驚くことはしてない」
「そんなことないですっ。目の前に急に人が現れたらびっくりしますっ」
 誰かのことを考えていて、その本人に急に顔を覗き込まれたら、誰でも驚くと思う。
「首を傾げていた理由は?」
「あ、先輩は女の子が苦手なのかな、と思って」
「は……?」
 先輩は意味わからないって顔で私をまじまじと見た。
「……一度でいいから翠の頭の中を見てみたいんだけど……」
「どうしてですか?」
「何をどうしたらそういう考えに至るのかが知りたい」
「……思考回路?」
「そんなようなもの」
「……先輩が格好いいなぁと思って、女の子に人気あるのもわかるなぁと思って、でも、先輩は女の子になんとなく冷たい気がしたから……?」
「なんだ、そんなこと……」
 とてもつまらなそうに先輩はそっぽを向いた。
 そこへ飲み物を抱えた秋斗さんが戻ってきた。
 藤宮先輩にスポーツドリンクを渡し、私や桃華さんにも飲み物を買ってきてくれていた。
「司はさ、女の子に騒がれるのが面倒なんだよ」
 そんなふうに教えてくれる。
「騒がれるの、ですか?」
 訊くと、藤宮先輩が口を開いた。
「騒がれるのは迷惑だし、よく知りもしない人間に好きだって言われるのも迷惑」
 前者後者共に藤宮先輩に好意を持ってる人がいる、ということだと思うけど、それすらもダメなの……?
 なんだかとても容赦のない人だ。
「あ、桃華さんは?」
「簾条? なんでそこに簾条が出てくるわけ?」
「……共通の知り合いで藤宮先輩に話しかけるのって桃華さんくらいしかいないな、と思って……」
「……簾条と俺のやりとりが会話に聞こえるなら、その耳一度オーバーホールしたほうがいいと思うけど?」
「そうよ、翠葉。私とこの男が普通に会話するわけがないじゃない。皮肉の応酬がせいぜいよ」
 いつの間にか戻ってきた桃華さんが会話に加わった。
 むすっとしたふたりを目の前にたじろぐと、
「これは同族嫌悪に近いものがあるから放っておいて大丈夫」
 秋斗さんの助言になるほど、と納得したのは私ひとり。
 桃華さんと藤宮先輩は、「いい迷惑」と声を揃えた。
 直後、秋斗さんがおかしそうにくつくつと笑いだしたのは言うまでもない。
 機嫌が悪そうなふたりを前に、私も思わずクスリと笑ってしまう。すると、
「翠まで笑うな」
「翠葉まで笑わないっ」
 またしてもふたりの言葉が重なり、どうしても笑いを堪えることはできなかった。
 少し前まで震えていたのが嘘みたいだった。