裏道を使ったらいつもより少し早く学校に着いた。駐車場で蒼兄と別れ、校舎へ向かう。
 桜並木にも人はおらず、昇降口も閑散としたものだった。
 静かな校舎に自分の足音だけが響き、音という音がとても大きく感じられた。
 そんな中、教室のドアをそっと開けるとひとつの後ろ姿が目に入る。
 ひとり静かに机に向かっていたのは佐野くん。
「あ、御園生、おはよ」
 振り返った佐野くんはいつもと違い、眠そうではない。
「佐野くん、おはよう。早いね?」
「今日、雨だったからなぁ……」
「……雨だと普通は遅れるものじゃないの?」
 現に、いつもならちらほらと昇降口にいる人も今日はいなかった。
「あぁ、雨だと朝練がないんだ。でも、起きる時間ってそうそう変えられないからさ、どうせだったらいつも通りに行って課題でもやろうと思って」
 なるほど……。
 納得しながら席に着く。
「朝練って、いつも何時くらいに来ているの?」
「六時半には着いてるよ」
「っ……!?」
 六時半なんて、まだ自宅で学校へ行く支度の真っ最中だ。
「勉強もなんとか手の届く範囲だったけど、一応は陸上の特待枠で入学したからね。みんなよりは少し早く来て練習してる」
 気負いなく話しているように見えるけど、きっと計り知れないプレッシャーがあるのだろう。
「御園生もいつも早いよね?」
「うん、蒼兄と一緒に車で通学しているから……」
「えっ!? 御園生さんとっ!?」
「うん」
 佐野くんは目を輝かせたまま、
「俺、御園生さんが高二のときのインターハイ、生で見たんだ」
「あ……それ、私も見に行ったよ」
「もうさ、ほかの誰よりも速くて、しかもきれいで。羽が生えて飛んでっちゃうんじゃないかって思うくらいにきれいに見えたんだよね」
 背中に羽が生えるとは思わなかったけど、私も同じようにきれいだなと思って見ていた。同じようなことを考えていた人がいたと知ると、なんだか嬉しくなる。
「その頃の俺は野球少年だったんだけど、中学に行ったら絶対に陸上部に入るって決めた瞬間だった」
 何かを見て、何かを始められることが少し羨ましい。
 私は憧れることがあっても、実際に始められるかというと、いつも体調を考慮する必要があって、たいていはそこまで考えて諦めることが多い。
「なぁ、高二のインターハイ終わってから一度も見なくなったのって、なんで? 故障か何か?」
 佐野くんは訊きづらそうに、けれど、訊かずにはいられないといった感じで訊いてくる。
「怪我ではないの。それに、佐野くんには申し訳ない理由の気がする……」
「え……?」
「あのね、ほかにやりたいことができたから辞めたみたいなの。うち、両親が建築やインテリアデザイナーをしていて、その職業に憧れて、その勉強をするためにやめたんだって」
 佐野くんは一瞬ポカンとした顔をし、すぐに目を輝かせ始めた。
「格好いいっ! 俺、御園生さんリスペクト! どこまでもついていきますって感じっ!」
 なんだか、魂が半分どこかへ行ってしまった感じ。
 蒼兄の潔さには感心するものがあるけれど、私からしてみたら、やっぱりもったいなかったんじゃないか、と思ってしまう。
 私が感じるものとは違うことを佐野くんは感じたのだろうか。だとしたら、それはなんだろう。やっぱり、潔さ、なのかな。
「そうだ、佐野くん。今日ね、いつもの三人とお昼休みに内緒話をする予定なのだけど……。もしよければ、その内緒話、佐野くんも付き合ってもらえないかな?」
 勇気を出して誘うと、佐野くんは少し考えているふうだった。
「それってさ、先週言ってたまだ解決してない部分の話?」
「……そう」
「……俺が聞いてもいい話なの?」
「あのとき、佐野くんは大丈夫だなって思ったの。けど、内容的に明るい話ではないから……」
 苦笑まじりに話すと、
「もしかしたら、俺はその話を少しだけ知ってるかもしれない」
 思いも寄らない言葉に瞬きを返す。
 まだ秋斗さんと藤宮先輩にしか話していないものをどうして佐野くんが知っているのだろう。
 不思議に思っていると、
「御園生ってさ、俺らよりも一個上でしょ?」
「っ……なんで、なんで知っているの?」
「んー……いくつか理由はある。そのうちのひとつは、御園生が願書を出したすぐあとが俺だったから……。たまたま生年月日が見えちゃったんだ。ふたつ目はリハビリ先の病院で何度も見かけてたから」
 拍子抜けしてしまう。
 なんだ、最初から知っている人もいたんだ。
 前ほどの衝撃や抵抗は感じない。
 それは、相手が佐野くんだからなのかはよくわからないけれど。
「うん、その話に起因すること」
「わかった。お昼休みね」
 会話が終わる頃合を見計らったように、パラパラとクラスメイトが教室に入ってきた。
 そして、今日も飛鳥ちゃん流充電の餌食になる。

 授業は何事もなく進み、お昼休みを迎えた。
 さぁ話そう、と思うものの、今日は雨。
 桜香苑には行けないし、クラスでしたい話でもない。
 そう思っていると、校内放送で呼び出しがかかった。
『御園生翠葉さん、御園生翠葉さん。至急保健室まで来るように』
 なんだろう……?
「場所、ちょうどいいから湊ちゃんに提供してもらわね?」
 言い出したのは海斗くん。
 私にとっては願ってもない場所だけれど、湊先生は許可してくれるだろうか。
 一抹の不安を抱えながら五人揃って保健室を訪れた。
 保健室を前に、ノックをしてドアを静かに開ける。と、
「なんでそんなに大人数なのよ」
 見てわかるほどに呆れられた。
「え? それは湊ちゃんが翠葉を取って食わないように見張るため?」
 海斗くんが真顔で答えると、
「食うか、阿呆っ」
 容赦なく先生は海斗くんの頭をはたいた。
「湊ちゃん、その手癖どうにかしたほうがいいって……」
 などと言いながらも、早速打診を始める。
「あのさ、お願いがあんだけど。ちょっとここで内緒話させてよ」
「……うるさくしないならかまわないわよ」
「ありがとうございます」
 五人揃って頭を下げると、
「お茶くらいは淹れてあげるわ。適当に座んなさい」
 と、白く丸いテーブルを指差す。
 椅子に座るとちょっと感激した。
 少々奇妙な曲線だな、とは思っていたのだけど、座ってみると、その曲線が見事に体にフィットしたのだ。
 最近流行の人間工学に基づいたつくりであることを教えてもらうと、やっぱりお医者さんなんだな、なんて思う。
 椅子に感激していると、お茶が運ばれてきた。
 テーブルの真ん中にトレイを置くと、
「あなたたちは先に食べてなさい。御園生さんはこっち」
 と、窓際のデスクへと促された。
「あなたの主治医、紫さんから連絡があったの。体の負担を考慮すると、週一の診察はこっちでやったほうがいいだろうって。検査は今までと変わらず病院でやる。そのほかは私が診ることになったから」
 パソコンのモニターには私のカルテが表示されていた。
「じゃ、まずは腕を出して」
 血圧測定から始まり、脈をはかり、リンパ腺を耳の下あたり、鎖骨のあたり、脇の下、両肘の内側、膝の裏側とチェックをしていく。
「あの、お薬はどうしたらいいんでしょう? それと検査の予約とか……」
 ふと抱いた疑問を尋ねると、
「ここで処方できるから大丈夫よ。検査の予約もこのパソコンから取れるように秋斗になんとかさせるわ。すでにカルテはここで見られるようにしてもらえたからなんとななるでしょ。緊急時に備えて点滴セットも揃えた。だから、何かあればすぐにいらっしゃい。診察は毎週月曜日のこの時間」
「はい、よろしくお願いします」
「血圧は七十八の五十二。……本当に低いのね。倒れないように気をつけなさいよ?」
 眉間にしわを寄せる表情すらが藤宮先輩とそっくりだ。
「で? 保健室に何しに来たのよ」
「あの、私の体のことを話そうと思って……。先週、倒れたときにとても心配をかけてしまったので。……でも、教室では話しづらくて。本当は外へ行こうと思っていたんですけど生憎雨で……」
「なるほど、いいわよ。必要があれば私がフォローする」
「すみません。ありがとうございます」
 食べながら話すという器用なことができないので、まずは先にお弁当を食べることになった。
 話題は、ゴールデンウィーク明けに予定されている、学年交流キャンプの話で持ちきりだった。
 主に飛鳥ちゃんと海斗くんがはしゃいで話している。
 桃華さんは、
「日焼けしたくないわ」
 と、少し憂鬱そう。
 佐野くんは、
「出発日も朝練あんのかなぁ……。帰ってきた日に午後練あんのかなぁ……」
 と、どこか思案顔。
「バスでは絶対私が翠葉の隣っ!」
 飛鳥ちゃんの言葉が嬉しくて、少し申し訳ない。
 私はそのキャンプには行かない。すでに不参加で届けを提出してあった。
 最後の私がようやく食べ終わり、空気がなんとなく変わるのを肌で感じる。
 割と冷静なのは佐野くんのみ。
「そのキャンプね、私、不参加なの」
 その話を糸口に話し始めることにした。
「えーっ!? 翠葉がいなかったら楽しさ半減だよっ!?」
 すぐさま飛鳥ちゃんが反応を見せる。
「そう言ってもらえて本当に嬉しいのだけど、無理なんだ」
「……なかなか話に入ってこないし、またあの困ってます、って顔をしてるからそうなのかとは思ったけれど……。それも体が原因なの?」
 桃華さんに訊かれる。
 桃華さんは人の動向をよく見ている。そして、佐野くんもどちらかと言うと桃華さん寄りの人に思えた。
「これ、見てもらえる?」
 先日秋斗さんに話すときに使ったルーズリーフをテーブルの中央に置いた。
「知らない言葉ばっか……」
 飛鳥ちゃんの言葉に、「そうだよね」と言葉を返す。
「いくつかの言葉は保健体育で聞き覚えがあるけど……」
 と、言ったのは海斗くん。
「血圧数値ってよくわからないけど、正常値からしてみたら、翠葉の血圧は半分ちょっとしかないってことよね?」
 桃華さんに訊かれてコクリと頷く。
 佐野くんはルーズリーフを見ているだけで何も言わない。
「えぇと……病気の話の前にひとつカミングアウト。私、ここにいる四人よりもひとつ年上です」
 まずはここから話さなくちゃいけないだろう。
 湊先生は少し離れたところからこちらの様子を見ていてくれた。
 佐野くんは事前に知っていたということもあり、とくに驚くでもなく聞いている。けど、ほかの三人はそれぞれ衝撃を受けたようだ。
 その気持ちはわからなくもない。
 私は年上っぽくないし、そうも見えない。
 ……違う、そうじゃないかな。この場合、病気の話をされると思っていたら、違うものが降ってきた感じだろうか。だからびっくりされた、かな?
「私ね、ここに書いてあることが原因で、去年、半年以上入院していたの。だから、一年留年してるんだ」
 佐野くん以外の三人は、ひどく驚いた顔で私を見ていた。