「……そうですね。油断したらそういう状況になることもあります」
 暗い雰囲気なるのは嫌で、笑いを交えて答えると、
「笑わなくていいよ」
 と、頭を優しく撫でられた。
 手の重みが蒼兄のそれと似ていて、目を閉じていたら間違えてしまいそう。
「秋斗さんが入学式の日にしてくれたお話。あの日、蒼兄の携帯には『意識不明で運ばれた』ではなく、『心不全で運ばれた』と連絡が入ったはずです……」
 秋斗さんは一度目を閉じてから、
「やっと合点がいった……。いつも冷静な蒼樹があれだけ血相を変えた理由が今わかった」
 言って、細く長いため息をついた。
「病院まで蒼兄を送ってくれたのに、そのあとのことは何も聞かなかったんですか?」
「前にも言ったでしょう? 蒼樹は意識不明で運ばれたって言ったんだ。あんなときですら、口を滑らせはしなかったよ」
「でも、いくらなんでも病院まで送ってくれた秋斗さんに、そのあと何も説明してないはずは……」
 秋斗さんは私の方へ向き直ると、
「数日後に会ったとき、お礼は言われた。けど、翠葉ちゃんの状態、容態については何も言わなかった。こっちも突っ込んで訊くようなことはしなかったしね。蒼樹は翠葉ちゃんの話をよくするけど、体が弱いとか持病があるとか、そういう話をしたことはないんだ。ただ、ちょっと臆病で意地っ張りなところがあるけれど、素直でいい子なんだって話ばかり。あの日まで、何か持病があるとかそういったことは僕を含め、周りの人間誰もが知らなかったよ。あのあと、入院してるんだろうなってことは言われなくても気づいたけどね。蒼樹は大学が終わるとたいていはここに立ち寄るんだ。でも、去年、あの日を境に七時を過ぎないと顔を出さなくなった。……お見舞いに行っていることは察しがついた」
 私が入院している間、蒼兄は一日も欠かさずお見舞いに来てくれていた。そして、面会時間のギリギリ七時まで側についていてくれた。
 あのとき、蒼兄がいてくれなかったら、きっと私は孤独にも治療にも耐えられなかっただろう。
「そりゃさ、大事にしている妹が心不全で倒れたりしたら蒼白にもなるよ。それに、過保護にだってなるし、不注意で倒れようものなら怒鳴りもするだろう……」
 先日のことを言われてるのだと思い、肩身が狭くなる。
「自分の不注意で倒れたとき、真先に怒るのは蒼兄の役目になっちゃいました。でも、普段はすごく優しいんですよ」
「そうだろうね」
 秋斗さんはカップを取って一口お茶を含んだ。
「心臓に異常はないの?」
「はい。とくに手術が必要なものではないそうです」
 秋斗さんは少し間を置いてから、
「それは、手術が必要なものはないけれども、あることはあるって話だよね?」
 まさかそこまで突っ込まれるとは思っていなくて少し驚く。
「でも……こういう人もいることにはいるって言われているので、大したことでは……」
 言葉を濁すと、
「内容は?」
 と、容赦なく追求された。
「僧帽弁逸脱症。弁膜がきちんと閉まらず、時々逆流するので不整脈が起きたりします。それが原因で失神することも……。でも、今すぐに人口弁に置換する必要はないそうなので、経過観察中です。あとは、弁膜自体もものすごく薄いらしくて、血圧が低いのは体質なのか、それとも弁膜が薄いからなのかはちょっとわからないみたいで……」
 そこまで話し、さっきの説明では誤解を招きかねないと思い、少し補足することにした。
「蒼兄の携帯に"心不全"と連絡が入ったと言いましたけど、心不全の原因は様々です。私の場合は、ただでさえ低い血圧のところ、複数の要因でさらに血圧が下がる可能性があって――自律神経がきちんと働いていれば問題ないようなことでも、私の体は調節機能がうまく働かないのでさらに下がります。結果、心筋などに異常がなくても血液循環量が足りなくなって心不全を招く。去年は急性低血圧と不整脈が重なって入院が長引いてしまったんです」
 秋斗さんは、「なるほど」ともう一度ルーズリーフに目を落とした。
 一息ついて、ソファの背もたれに身を預けた秋斗さんは、
「運動ができないのも、カフェインがNGなのも、昨日のお昼休みに倒れた理由も、全部わかった」
 何か考えているような顔から穏やかな表情に戻る。
「蒼樹のことをシスコンなんて言ってきたけど、あいつの気持ちが少しわかったよ。これはさ、知っちゃうと目の届くところに置いておきたくなる」
「……秋斗さんまで蒼兄みたいなこと言わないでください」
 言って、私は少し笑った。
「話しててつらくなかった? 大丈夫?」
 そっと顔を覗き込まれる。
「そういえば……人に話すの、もっとつらいことだと思っていたんですけど……」
 つらくなって全部話せないかもしれないとまで思っていたのに、意外と普通に話すことができた。
「なんだか普通に話せちゃいました。これなら来週、海斗くんたちにも話せそうです」
 笑顔で答えると、秋斗さんの表情が固まった。
「どうか、しましたか?」
 今度は私が秋斗さんの顔を覗き込む。
「……まいったな。翠葉ちゃん、今日はよく笑うね?」
「え?」
「至近距離で笑われると抱きしめたくなるんだけど」
「なんですか、それ」
「だってさ、会う度に困った顔や泣きそうな顔、そんな顔ばかり見てたからさ」
 そう言われてみれば、と思い返してみる。
 図書室前で初めて会ったときは困っている人だったし、体育教官室前で会ったときは具合が悪くて余裕がなかった。その次は病院だったな……。
 あのときも、「他人行儀で寂しい」みたいなことを言われて困惑していたし、昨日は昨日で泣いていたし、倒れちゃったし……。
「本当ですね? 私、笑ってなかったかも?」
「でしょう?」
 言われて肩を竦める。
 少しだけ、秋斗さんが女の子に人気があるのがわかった気がした。
 秋斗さんは職員じゃないし、生徒との接触も少ない。けれど、秋斗さんが姿を見せるだけでその場にいる女の子は色めき立つ。
「何? 僕の顔、何かついてる?」
 訊かれて、「いいえ」と答える。
「秋斗さんが女の子に人気があるの、わかる気がして……」
「なんだろう?」
「だって、格好いいでしょう? それに、会えば優しい言葉をかけてくれるし、子ども扱いではなくて、女の子扱いしてくれるでしょう? 女の子なら誰でも嬉しいと思うんじゃないかな?」
「じゃ、翠葉ちゃんに好きになってもらうためにもっと甘い言葉を言おうかな?」
 にこりと笑われて私は固まる。
「その笑顔は反則だし、ちょっと意地悪です」
「あれ? そう?」
 クスクスと笑う様に警戒心が緩む。
「さ、そろそろ出ようか」
「はい」
 条件反射のように立ち上がって、しまった、と思う。
 こめかみのあたりからす、と冷たくなって目の前がチカチカとモザイクがかる。でも、このくらいなら大丈夫――次の瞬間、後ろに腕を引かれていた。
 重心が傾き背中から落ちる。視界は戻らないものの、衝撃という衝撃はさほど感じなかった。
「大丈夫?」
 耳もとで秋斗さんの声がした。
 それから数十秒して、ようやく視界が戻ったときには秋斗さんの顔がすぐ近くにあって絶句した。
 背中からじんわりと秋斗さんの体温が伝わってきて腕の中にいることに気づく。
「すみませんっ」
 すぐに離れようとしたけれど、思うように体に力が入らない。全体重が秋斗さんへかかっていて、どこに力を入れたら立ち上がれるのかがわからなかった。
 しだいに顔が熱くなってくる。
 赤面していることを隠したくて、体勢を変えることもできずに俯むくと、
「いちいちリアクションがかわいいのも問題だな。翠葉ちゃん、異性苦手でしょう?」
 訊かれて、小さくコクリと頷いた。
「高校に入るまで、男の人ってお父さんと蒼兄と病院の先生くらいしかきちんと話したことなくて……」
「それはそれは、紛うことなき箱入り娘だね。うちの学校に来てから色々変わったんじゃない?」
「……前の席に男子がいるとか、そのくらいは大丈夫なんですけど、目が合ったりじっと見られるのはちょっと……」
 怖いのと、恥ずかしいのと両方。
 ついでに、この状況も早くなんとかしたい。
「人に見られるのはかわいい子の宿命だから諦めなさい」
 言って、今度は立ち上がるために手を差し伸べられた。
「今までは誰も近寄れなかったんだろうね。あの蒼樹がつきっきりだったから。でも、僕は違うよ?」
 不敵な笑みを見せられ、少しかまえる。
 秋斗さんは人当たりがソフトで優しいからついつい油断して懐いてしまうけれど、実のところは違うのかな……?
 話すたびにフェミニスト全開だから、心臓がいくつあっても足りない気がする。
 できることなら今すぐ海斗くんに秋斗さん対策を訊きたいくらい。
 私は携帯とデジタル一眼レフを持って、秋斗さんはアタッシュケースを持って図書室をあとにした。