栞さんがドアを開け、先に荷物を秋斗さんに渡す。
「じゃ、いってらっしゃい」
 栞さんと湊先生に見送られ、
「一週間お世話になりました」
 浅くお辞儀をしてから外へ出た。
 秋斗さんはエレベーター前でエレベータを待っている。
 ふとこちらを見て目が合った。けれどもそれはすぐに逸らされる。
 まるで何も見なかったように――。
 突如不安に駆られる。
 普段着ないような洋服にメイクまでしてもらって、髪の毛も巻いてる。
 いつもとは何もかもが違う。
 自分の格好を再度見て、こんな自分ではないみたいな格好をしなければ良かった、と早くも後悔を始める。
 不安でその場を動くことができなかった。けれどもすでにドアは閉められており、引き返す場所はない。
 視線はとっくに足元に落ちていた。
「翠葉ちゃん、ごめん……。違うんだ――エレベーター来たから、だから……おいで」
 秋斗さんに声をかけられたけれど、それでも不安は拭えない。
 変な格好の私が隣に並んだら、秋斗さんも変な目で見られてしまう。
 どうしよう――。
「翠葉ちゃん、おいで」
 優しく声をかけられた。視線を上げると、困ったような顔をした秋斗さんが、もう一度「おいで」と口にした。
 このままこうしていても仕方ない。最悪、どこかへ出かけるのではなくうちへ送ってもらおう。
 そう決意して歩きだす。
 秋斗さんは荷物を運び込むと、エレベーターのドアを開けて待っていてくれた。
 エレベーターの中へ足を踏み入れると、
「ごめんね。ただ、少しびっくりしただけなんだ。……見違えるほどきれい」
 ……本当?
 顔を上げると、秋斗さんの視線は壁を向いていた。
 ……本当はそんなふうに思ってないのかもしれない。だって、いつもなら間違いなく視線を合わせて言ってくるような台詞だもの。
「悪いんだけど、あまり見ないでくれる? ……心臓に悪い」
 その言葉はどこかで聞いたことがある気がした。
 ――違う。聞いたんじゃなくて、私が秋斗さんに言った言葉ではないだろうか……。
 冗談? またからかわれているの?
「本当に、勘弁して……」
 秋斗さんは完全に壁側を向いてしまった。
 ちょっとショックだ……。
 そう思いつつ、自分が散々してきた行動の数々を思い出す。
 少し反省――でも、本当に余裕がなかったんだもの……。
 ニ階に着くと、
「ごめん、エントランスで待ってて。車回してくる」
「えっ!? あの、駐車場まで一緒に行きます」
「いや――少しだけ時間ちょうだい。たいせい立て直したい」
 言うと、エレベーターを降りてしまった。
 ……たいせいを立て直す? なんの……?
 ふと思い立って携帯を取り出す。
 メール作成画面を起動させ、"たいせい"と打ち込むと漢字変換を試みた。
 耐性、体性、体勢、態勢、大勢、胎生、退勢、大成、対生、大政――態勢……?
 態勢とは、身構えや対応のことをいう。
「え、なんの……? え? あれ? 気持ちの、態勢?」
 自分の中で導き出された答えに少し驚く。
「でも、違う"たいせい"かもしれないし――」
 そうこう考えているうちに、正面玄関に車が着いた。
 内側秋斗さんは内側から助手席を開けてくれる。
 シートに座り、この車に乗って初めて自分でドアを閉めた。
 そんなことを新鮮に思ったけれど、まだ頭の中には"たいせい"が居座っている。
 答えが知りたい――。
「秋斗さん、さっき言った"たいせい"の漢字、教えてくださいっ」
「……翠葉ちゃん、今日は意地悪だねぇ……」
「え? 意地悪だなんて……。ただ、どの漢字が当てはまってどういう意味だったのかを知りたいだけで――」
 秋斗さんは大仰にため息をついてハンドルにもたれかかった。
「白状しますか……。翠葉ちゃんがきれいすぎて驚いた」
「え……?」
「そんな格好も髪型もメイクも、全部予想外。……俺の笑顔が反則なんてかわいいものだ。今日の翠葉ちゃんは存在自体が反則」
 それは――。
「人に見せて歩きたい反面、人目に触れさせるのが惜しくなるくらいにきれいだと思った」
 やっと顔を上げて視線を合わせてくれた。
 ……嘘――。
「秋斗さん、顔――」
「わかってる……。いつもからかっててごめん」
 シャツの襟で首は見えない。でも、秋斗さんの顔がいつもよりも赤い。
 予想外というなら私のほうだ。こんな秋斗さんを見れるとは思いもしなかった。
「じゃ、行こうか」
「……はい」
 車は緩やかに発進する。
 私とは違って、秋斗さんの赤みはすぐに引いてしまった。
 でも、きれいと言ってもらえたことや赤面してもらえたこと。それがとても嬉しかった。
 今までは「かわいい」としか言われたことがなかったから……。