弾き始めたそれは軽いタッチの曲で、ひとつのモチーフをどんどん変化させていくような変奏曲だった。おそらく即興演奏。
 即興演奏でここまで自由に弾けるものなんだな……。
 音を外すこともなければ、危うげな演奏もしない。
 高度な技術を要するものではないものの、音の連なりを聴いて楽しめるものだった。
 きっと翠が言ったとおりなのだろう。ハープよりも綿密な感情表現ができている気がした。
 それはまるで、ピアノと対話しているようにも見える。
 二曲目はしっとりとした和を彷彿とさせる曲だった。
 少し悲しげな旋律なのに、どこか希望が見えてくるような――そんな曲の展開。
 弾き終わるとあたりから拍手喝采が沸き起こる。
 これだけ弾けて、なぜあんなにも不安そうだったのかがわからない。
 もう少し自信を持ってもいいようなものを……。
 翠が深呼吸をひとつして、鍵盤に手を乗せると拍手が止んだ。
 そうして始まった演奏は聞き覚えのあるものだった。
 木曜日、翠が壊れたように弾いていたハープの旋律……。
 痛々しいほどに悲しみが伝わってくる旋律。
 きれいすぎて脆すぎて、触れることすらできないような繊細な音たちがあたりに響き、風に吹かれて桜香苑へと吸い込まれていく。
 何度となく、新しいフレーズへのきっかけになりそうな音が鳴るのに、それは次へ進めず悲しみの旋律を繰り返す。
 結局、最後まで悲しい音のまま終焉を迎えた。
 弾き終わっても会場からは拍手の音は聞こえない。皆が演奏に呑まれていた。
 どちらかというと、"負"の感情に。
 中には泣いている人間もいた。
 翠の演奏はある意味凶器だな――。
 でも、弾かずにはいられなかったのだろう。
 翠は十分すぎるほどゆっくりと椅子から立ち上がり、ステージ中央に立つとドレスを少しつまんでお辞儀をした。
 そこまでしてようやくパラパラと拍手が鳴り始めた。
 翠は頭を下げたまま動かなかった。
 異変を感じ、すぐに彼女のもとへ行く。
 客側に自分が立つようにして翠の右腕を取る。と、翠は静かに顔を上げ、涙をポロポロと零していた。
「つらいんだな……」
「…………」
「今泣いている聴衆が何人いると思う?」
「……だから、どうなっても知らないって事前に断ったじゃないですか」
「それ、泣きながら言い返すことか?」
「そうだ……私、泣いてるんですけど、どうしましょう……」
 なんだか奇妙な会話だ。でも――。
「安心しろ。ステージの裏に四方を囲んだブースがある。そこで嵐が待ってる。それに、これから茜先輩のソロリサイタルだ。聴衆はそっちに気を取られる」
「え……里見先輩のリサイタルって……?」
 翠の中でカチリと音が鳴った気がした。何かが切り替わる感じ。
「先輩は声楽をやってる。高一のときにアルバムも出した」
「知らなかった……」
 自分では切り替えることができないけど、人に話を提供されれば意外と簡単に切り替えられるのかもしれない。
「それ、すごく聞きたいです……」
「なら、早く顔を直してこい」