インターホンが鳴り、ロックを解除すると自動的にドアが開く。と、そこには少し緊張した面持ちの彼女がいた。
「いらっしゃい」
 いつもと変わらない対応で迎え入れる。
 その際、図書室に司がいることを確認した。
 何かあったとしても、隣に司がいるならなんとかなるだろう……。
 今、俺は何ができる状況にはない。
 この際ライバルがどうのと言ってる場合ではなく、優先すべきは彼女自身――。
 彼女は部屋に入って少しのところで足を止めた。
「翠葉ちゃん?」
「あ、すぐに作りますね」
 作り笑いをして部屋の奥にある簡易キッチンへ向かい、冷蔵庫に用意してある材料を確認しだす。
 もう、すでに無理をしているのではないだろうか。
 手際よく料理をする彼女の背中を見つつ、不安がよぎる。
 十五分ほどそうしていると、お皿に盛りつけ始めたので、席を立ち、それらを運ぶことを買って出た。
 すると、今度は俺に彼女の視線が張り付いた。
 お互い、相手が自分を見ていないときに見つめてるなんて、おかしいね。
 今気づいた、そんな感じで振り返ると、彼女は「なんでもありません」というように、緩く首を振った。
 シーフードチャーハンとワカメのスープを前に、
「いただきます」
 手を合わせてからそれらを口に頬張る。と、和風の味付けに心が和む。
「すごく美味しい」
 感想を言うと、
「栞さん仕込ですから」
 と、彼女は嬉しそうに答えた。
「あぁ、それならいつでもお嫁に行けるね」
 いつもの調子で話しかけると、彼女は少し寂しそうに笑う。
「俺がいつでももらうよ?」
 顔を覗き込むと、彼女は目を逸らし、
「……明日。明日、ちゃんとお返事します」
 と、不自然な笑みを添えた。
「わかった」
 間違いない。明日、俺は振られる――。

 食後にハーブティを飲んでいると、
「約二週間、お世話になりました」
 頭を下げてお礼を言われた。
 二週間――たったの二週間だ、彼女と共に過ごせたのは。
「俺は楽しいひと時でもあったんだけどな……」
「私も、とても楽しかったです」
 この言葉は気を遣ってるわけではなく、本当にそう思ってくれているのだろう。
 でも、何か話すたびに寂しげに笑う様は正視していられない――。
 我慢ができずに、「ちょっとお皿だけ洗ってくるね」と席を立った。
 彼女はソファへと移動したようだ。
 なぜ彼女ばかりがこんなに傷つく羽目になるのだろう。
 体調、人間関係、雅のこと、そのうえ今回の出来事……。
 通常、それらを受け止めるのにはかなりの精神力を要すはずで、周りに気を回す余裕などなくてもおかしくはないのに。
 なのにどうして笑う? どうしてそこまで俺を気遣う?
 もっとつらいことをストレートにぶつけてくれてかまわないのに。それで嫌いになったりはしないのに。

 洗い物を終え、カップを持ってソファへと移動する。
 いつもなら彼女の隣に腰掛けるところだが、今は向かいのソファに座ったほうがいいだろう。
 その俺を見て、彼女は下を向いたりこちらのソファを見たり、とそんな動作を繰り返していた。
 そして、
「秋斗さん……そっちに行ってもいいですか?」
 とても小さな控え目の声で尋ねられる。
 それは彼女の意思だろうか。それとも単なる気遣い?
「無理しなくてもいいんだよ?」
「あの……気持ち上では無理なことだと思っているわけではなくて、体と心が別々になっちゃった感じって……わかりますか?」
 無理はさせたくない。――が、自分の中にももっと彼女の側にいたいという思いがある。
「……なったことはないけど、でも――翠葉ちゃんが今その状態ならば、俺の側には来ないほうがいいんじゃないの?」
「……側に、側にいたいんです――」
 痛切なまでの申し出に俺は負けた。
 無理だと思えばすぐに引けばいい……。
 そう自分に言い聞かせ、
「無理はしないこと。……いい?」
 と、念を押した。
 彼女はゆっくりと立ち上がり、俺が座るソファへと一歩一歩近づく。
 一歩近づくたびに、彼女の表情が強張っていくように見えた。手はうっ血するほどに握りしめられている。
 これはやめさせたほうがいいのか――。
 思いをめぐらせているうちに、彼女は俺が掛けているソファの端に浅く腰掛けた。
 今、俺と彼女の間にはちょうど一人分のスペースが空いている。
 このくらい離れていれば大丈夫なのか?
「秋斗さん、昨日と同じ……。手を出してもらえますか?」
「……翠葉ちゃん、無理してるんじゃないの?」
「…………」
「焦らなくても時間はあるんだから」
 本当は明日がタイムリミットであることはわかっていた。だからこそ、彼女が今こうしてがんばっていることも……。
 翠葉ちゃん、君が俺を振らなければ時間は無限大にあるんだよ。
 けれども、彼女の中にその選択肢はない。
「手をください」
 と、思いつめた表情で言われた。
 彼女は間違いなく無理をしているだろう。それでも、この勇気を無駄にしてはいけない気がした。
 複雑な気持ちでふたりの間に手を置く。と、彼女は俺の手をじっと見つめ、何度も何度も深呼吸を繰り返した。
 そして、自分の左手をそっと俺の右手に重ねる。
 突如、彼女の脈拍を知らせる携帯が、胸の内で頻繁に振動しだした。
「翠葉ちゃん、ここまでだっ」
 咄嗟に自分の手を引き抜く。
「やだ……こんなの、嫌なのに――」
 まるでダムが決壊したかのように次々と涙があふれだす。
 っ……抱きしめたいのにそれすらもできない。
 今、俺にできることは何もない。
「……司を呼んでくる。少しだけ待っててね」
 そう言って部屋を出た。