うちのとなりは栞ちゃんの家。
 彼女の部屋は通路に面しているものの、電気は点いていなかった。
 もう寝たのか、それとも――。
 四角い窓の向こうを気にしつつ、その前を通り過ぎた。
 静さんの家のインターホンを鳴らすと、
『開いてる』
 と、一言返ってきた。
 ドアを開けリビングへ向かうと窓が開いていた。
 どうやら、部屋の主はベランダにいるようだ。
 外からの風でカーテンが部屋に舞い込む。
 それを手で押さえると、「じゃぁ、おやすみ」という声が聞こえた。
 静さんは携帯を切りこちらを向いた。
「さぁ、飲もう」
 と、柔らかに笑う。
「何かいいことでもありました?」
「まぁ、日課のようなものだ」
 ベランダに出ると、リゾート風のダイニングテーブルに迎えられる。
 重厚感あるテーブルセットに着くと、そのテーブルの上には年代物のウィスキーが置かれていた。
「これ、かなり昔の酒で廃盤ですよね。なんでこんなレアなものを……。まさかバーテン脅してぶんどってきたりしてませんよね?」
「中はそんなに入ってるわけじゃないんだ。悪酔いしないようにうまく飲め」
 ロック、オンザロック、ハーフロックに水割り。いやいや、ハイボールくらいから楽しむか。冬になったらホットウィスキーも試したい――。
「くっ、おまえ目が真剣すぎだろ。半分は残ってるから今飲んだらあとは好きにしろ」
 それはありがたくもらうことにしよう。
「グラスと氷、冷凍庫に入ってるから適当に持ってこい」
 と、椅子にかける。片手には仕事の資料らしきものがあった。
 もしかしたらマンションに帰ってくる余裕はなかったのかもしれない。朝は朝で五時前から動いていたようだし……。
 若く見えるとはいえ、もう四十五。今年で四十六。
 そろそろ体のことを考えたほうがいい気がする。
 そんなことを思いつつ、冷凍庫からグラスと氷、冷蔵庫から水とソーダを取り出しトレイに乗せる。
 ベランダに戻ると、
「そのグラスということはハイボールか?」
 と、笑われた。
「えぇ。仕事が佳境の人間にストレートやらロックは出せないでしょう」
「なんだ、こっちのことは気にしなくていいんだぞ? おまえ、自棄酒したいんだろ?」
 本当に性質が悪い……。
「こんな酒を目の前に出されて自棄酒なんかできますかっ」
 うまい酒を飲ませたくて持ってきたのではなく、自棄酒ができないようなアイテムを持ってこられたとしか思えない。
「で? 何があったんだ?」
 面白そうに訊いてくる。
 ハイボールを作りながら今日の出来事を話した。
「なるほどね。そりゃ管巻きたくなるのもわかるな。それにしても……秋斗、何か悪い相でも出てるんじゃないか?」
 悪い相、イコール女難の相か何か?
 いやいやいや――今のところ、女難と言えるのは雅くらいなものだろう。
 翠葉ちゃん……彼女は女難とは思いたくないし、そっちに分類したくない。
「実のところ、こんなふうに女の子に拒絶されるのは初めての出来事でして、意外とショックでした」
 グラスを差し出すと、静さんは「ありがとう」と受け取り口にする。
「うまいな」
 言いながらグラスを傾けた。
 ソーダとの相性がとても良く、爽快感を感じる。
「「これにライムかレモン――」」
 ふたり同時に口にして笑った。
「ここに栞がいたら、間違いなく付いてくるアイテムなのにな」
「確かに……。独身男の冷蔵庫にはライムやらレモンなんて代物はありませんね。コンシェルジュに言えばすぐ持ってきてもらえそうですが」
 けれども、俺も静さんも携帯を手に取ろうとはしない。
「こんなことで諦めるつもりはないのだろう?」
「諦められない、というのが正直なところですかね。……自分がここまで固執する相手が現れたことに、未だ驚きを隠せない状況でもありますし」
「あぁ、かなり衝撃的だよな」
「……で、静さんを振り続けている人間ってどこぞのお方で? 俺、その人の生態にえらい興味があるんですが」
 静さんはくつくつと笑い出す。
「この私をあしらう人間なんて、そうはいない。いるとしたら四人だな」
 四人もいるか……?
 思いつく限りを並べてみるも、やっぱりそんな人間はそうそういないわけで……。
 第一に俺のじーさん、藤宮の現会長だろ。そのほかに――いないだろ。次期会長をあしらえる人間なんて……。
 そもそもじーさんは恋愛対象じゃないし……。
「誰ですか? 俺の知る限りではじーさんだけなんですか」
「あぁ、確かにひとりは会長だ」
「ほか三人って俺の知ってる人ですか?」
「あぁ、全員知ってるな」
 静さんは愉快そうに笑う。
「あと俺が知ってる人で静さんに楯突こうって勇者は湊ちゃんくらいなんですが……」
「そうだな、湊もその内のひとりだ」
 ってことは湊ちゃんも対象外。
「あとふたりって誰ですか?」
「もう降参か? つまらないな」
 言いながら残りのふたりを教えてくれた。
「零樹と碧だ。あのふたりはすごいぞ? この私と対等に渡り合うからな」
 静さんは嬉しそうに話した。
「翠葉ちゃんのご両親……? ってことは、静さんを振り続けてるのって碧さんっ!?」
「正解だ。結婚してからもずっとアプローチしているんだが、一向に別れる気配もなければ、私になびく素振りすら見せない」
 振られ続けているというのに、朗らかに話すこの人は大丈夫だろうか……。
 振られ続けて神経がおかしくなっちゃったとか?
「碧は話してると面白いよ。勝気な女でね、私の相手などできるのは碧くらいだろうと思っていたんだが、学生時代から振られ続けてもう何年になるのかは途中で数えるのをやめたさ」
 それでこの人独身なんだ……。
 あり得ない執着心。
「まだ諦めないんですか?」
 少し気になった。未来の俺が目の前にいるような気がして。
「一生諦めるつもりはないんだが」
 言いながら時計に目をやり、
「そろそろタイムリミットだ」
 と、席を立った。
「仕事ですか?」
「あぁ、澤村が迎えに来ることになっている」
 もしかして、本当にこれを飲むためだけに帰ってきたんだろうか……。
「それ、好きに飲めよ。私からの祝いだ」
「……なんの祝いですか?」
「まだ振られてもいないんじゃ振られておめでとう、とは言えないからな。……まずは初恋おめでとう、かな?」
「……振られておめでとうじゃなくて良かったですよ。それも日曜日までの命ですが」
 スーツを羽織ると、
「そのときはそのときでまた祝ってやる」
 と、楽しそうに笑った。
「……嬉しくないなぁ……」
「司はどうしてる?」
 不意に従弟の話を訊かれた。
「どうもこうも……普通かな。あいつは俺みたいにストレートにアプローチするタイプじゃないし、もともと口数も少ない」
 何がどう変わったとは言えないし、これから何がどう動くかもわからない。ただ――。
「すごくあいつらしい、ですかね」
 目の前に広がる暗い空を見上げる。
「ほぉ、それはどんなふうに?」
「あいつのペースで自然に彼女に寄り添い始めてる。……そんな感じです」
「……一番侮れないタイプだな」
 的を射た言葉なだけに笑えない。
「どうしたことか……。城井の血には藤宮を虜にする血でも流れているのかもな」
 静さんは書類をまとめるとリビングに置いてあったアタッシュケースにしまう。
 それをベランダから眺めていると、
「今日はそこで飲んでろ。帰るときに戸締りだけ頼む」
 と、部屋を出ていった。