リビングに戻ると秋斗は廊下の壁に寄りかかっていた。
 即ち、私が出てくるのを待っていた、というところだろう。
 栞と海斗はリビングのソファに座っている。
 司は窓際に立ち、廊下の奥を見据えていた。
「司、今日の出来事を話しなさい。翠葉に何があったの? 知らない人に声をかけられたって言った途端に真っ青になったけど」
 司は罰の悪そうな顔をした。
「いつも豆を買ってるカフェで、俺が豆を買いに行ってる間にナンパかキャッチ、どっちかわからないけど、その手の男に話しかけられてた。右肩を掴まれてたと思う」
「なるほどね……」
 司は床に視線を落としたまま続ける。
「俺がいけなかったかも。ひとりにしたのはもとより、結構容赦なく怒鳴った」
 え? あんたが怒鳴ったの!?
「おまえがっ!?」
 私より先に、海斗が問い返した。
 それもそのはず。基本司は声を荒げるようなことはしない。どちらかと言うならば、諭すように言い聞かせ、相手を追い込むタイプだ。
「翠……ナンパもキャッチも、言葉すら知らなかった。それでつい、世間知らずにもほどがあるって怒鳴った。……泣かせた。そのあと、意味を知らないのは危ないと思ったからどういうものかも説明した。つまり、ああいう男についていくとレイプ、もしくは強姦されてもおかしくないって」
「……司くんは間違ってないわ。翠葉ちゃんはそういうところで本当に無防備だから……。誰かがきちんと教えなくちゃいけなかったことだわ」
 翠葉の誕生日、秋斗の家へ行った翠葉を栞はひどく心配していた。それゆえの言葉だろう。
「確かに司は間違ったことはしてない。ただ、もともと異性に免疫のない翠葉にはちょっと衝撃的な言葉であったり出来事だったんでしょうね」
「これがトラウマになる可能性ってどのくらい?」
 司に訊かれ。
「未知数よ。一過性ならば無理をしなければ割りと早くに落ち着くでしょう。けど、何か誤れば長引くかもしれないし、本人の中に根付く恐れもある」
 仕方ない、簡単にテストだけは済ませるか。
「司、海斗、秋斗。これから客間に入る。そしたら一メートルくらい間をとって手を差し出しなさい。それに翠葉が手を乗せることができて握ることもできたら翠葉の隣に座ってみる。くれぐれも自分から握らないこと。それから隣に座るときも極力ゆっくり近づいて」
 言うと、三人は私のあとについてきた。
 司と一緒に帰ってきたのだから司はきっとクリアだろう。問題は海斗と秋斗。
 秋斗は一度拒否されているから最後――。
「司、海斗、秋斗の順でテストするから。いいわね?」
 三人は無言で頷いた。

「翠葉、これから客間に司たちを入れる。無理なら我慢しなくていい、蒼樹にくっついてなさい」
 ドアの外から声をかけ、数秒してからドアを開けた。
 翠葉は蒼樹の腕の中で、怯えた顔をしていた。
 これは海斗も無理か……?
「我慢はしなくていいし無理なら無理でいい。ひとりずつ握手できるか試してみよう」
 司が翠葉まで一メートルの場所まで歩み寄り右手を差し出す。すると、それに恐る恐る翠葉が手を重ねた。
「握れる?」
 訊くと、その状態から手先に力を入れて軽く握り、そのあと、もう少し力を足してしっかりと握った。
「大丈夫です……」
 緊張したままの状態で答える。
「司、そのまま隣に座ってみて」
 司はゆっくりと近づき、翠葉の左隣に間を十センチほど空けて座った。
 翠葉はというと、震えがひどくなることもなく少しほっとしたようだ。
「平気ね?」
「はい……なんともないです」
 やっぱり司はクリアか……。
「次、海斗。司と同じようにして」
 二度目だからか、海斗が手を出すと私が何を言うでもなく、その手に自分の手を重ね、握る、というところまで一気にクリアした。
 それを受けて、海斗がゆっくりと移動し翠葉の隣に座る。
 ……海斗もクリア、か。
 意外と大丈夫かもしれない。
「じゃ、最後に秋斗」
 前ふたりとなんら変わりはない。
 差し出された手を翠葉が見つめ、右手を重ねようとした瞬間に引っ込めた。
 そしてすぐに体が震えだす。
「そこまで。あんたたちは一度出ててもらえる?」
 三人とも、何も口にせず部屋を出ていった。
 秋斗は顔にあまり出さないものの、若干つらそうに見える。
 無理もないか……。
「あのっ、秋斗さん、あのねっ、違うのっ――嫌いとかそういうのじゃなくて……」
 翠葉が最後に部屋を出ようとした秋斗に声をかけた。
 秋斗は振り返り、
「翠葉ちゃん、今は湊ちゃんの診察を受けて?」
 少しの笑みを見せながらドアを閉めた。
 途端、翠葉の表情が歪む。
「翠葉、あんた今少し神経過敏になってる状態。トラウマっていうところまではいかない。ただ、自分が異性と認識している人に対しては過敏になるのかもしれない。感受性が豊かな子には稀にあることよ」
 翠葉にとって秋斗は"好きな人"という特別な分野での異性だ。
 それゆえに、拒否反応がひどく出てもおかしくはない。
「どうして……? 蒼兄も司先輩も海斗くんも異性です……」
 翠葉は涙を溜めた顔を私に向ける。
「秋斗は好きな人、でしょ。好きな人って必要以上に"異性"を感じるものよ。だから、今一番過敏になる相手。でも、これは一過性のものだと思うから気にしなくていい。ただ、無理をすると長引くかもしれない。だから、心のままに行動しなさい。怖いと思ったら近寄らなければいい。大丈夫そうなら近寄ってみる。そのくらいの心構えで。いいわね?」
「……はい」
 納得はできない。でも、体が拒否をする――そんな状態だろう。
 翠葉の隣に座り、
「たぶん、クラスメイトは問題ないと思うわ。一応海斗に牽制するようには言ってあるけど、さっきみたいなことにはならないから安心なさい」
 不安に満ちた顔で、「本当に?」という視線を向けてくる。
 それには一度頷くことで返事をした。
 海斗が大丈夫なら佐野までは問題ないだろう。
 その他大勢はもともとが圏外のはず。
「……それから、翠葉の警護、今朝で解除になったからもう大丈夫。だから、無理して秋斗のところへ行かなくてもいい。蒼樹を待つ場所に困るのなら保健室かうちにいていいから」
「……はい、ありがとうございます」
「今日はゆっくり休むこと、OK?」
 あとは蒼樹に任せていいだろう。

 リビングに戻ると、暗い顔をした人間が四人。
「海斗」
 呼ぶと、こちらを見て「何?」という顔をする。
「たぶん、あんたと佐野は大丈夫だと思うわ。でも、その他大勢の男においてはその限りじゃない。だから、しばらくは気をつけてあげて」
「了解」
「司も同様。明日、かなり大掛かりなイベントやるんでしょ? あんた、できる限りのフォローしなさいよ」
「わかった」
 今日、加納が流していた校内放送。あれの主人公は翠葉だろう。ならば、人の関心を引くのは必須……。
「当日は広報委員とクラス委員が総出で人員規制に入るから、翠に誰かが触れる可能性は限りなく低い。エスコート役は俺か美都と決まっているし、簾条を常に翠につけておく」
「そうね。そのくらいすればなんとかなるでしょ」
 で、問題は秋斗よね……。
「秋斗、つらいでしょうけど今は無理させないで」
「わかってる」
 わかってはいても、複雑な気分だろう。
「秋斗くん、翠葉ちゃんは意外と強い子なの。だからきっと一過性で済むわ。今は見守りましょう」
 この話はここまで、とでも言うような栞の口調に三人はリビングをあとにした。