時計を見ればすでに四時十五分を回っていた。
 問題なく連れ出せたとして、校内放送が聞こえるか聞こえないかのギリギリの距離かもしれない。
 急いで階段を下り昇降口に向かう。と、翠の声が聞こえてきた。
 視線を先にやると、頭を抱えている翠と漣が一緒にいる。
 翠と漣が知り合い……? クラスは違うはずだし、翠が守備範囲を広げるとも思えない。
 考えられるとしたら、漣が翠に目をつけたってところか……。
「翠、何してる? 漣も」
 俺が発した言葉に顔を上げ、
「あっ! サザナミくんだっ」
 翠がフルリアクションで口にした。
「あーーー、もうっ。司先輩なんで言っちゃうかなぁっ!? この人、俺の名前全然覚えてくれないんですよねっ」
 こちらを振り返る漣はひどく悔しそうな顔をしていた。
 状況は理解できかねるが、別に理解する必要もない。
 靴に履き替え、
「もう行けるの?」
 尋ねれば、「はい、大丈夫です」と翠は笑顔で答える。
 ただの返事。されど返事。警戒されてない感じが嬉しいと思った。
「えっ!? 何? ふたり付き合ってるんですかっ!?」
「違うよ」
「えっ、じゃぁ何っ!? なんなのっ!?」
 漣の問いかけに即答した翠は、「なんなんだろう?」という顔をして首を傾げる。
「今日は俺に付き合ってもらう約束してるだけ」
 翠の代わりに返事をしたものの、漣はここぞとばかりに質問を投げかけてくる。
「それって俺が申し込んでもOKってこと!?」
「や、それは……」
 詰め寄られた翠は一歩下がって困惑した顔をしていた。
 ……これくらい自分で断れ。嫌なら嫌だとはっきり言えばいいだけのことだ。
 そうは思いつつも時間の都合上助け舟を出さずにはいられない。
「俺は翠に貸しがあってそれを返してもらうだけだ」
「……俺も結構ないかな? ほら、何度言われても名前覚えられなくてごめんなさいデートとか」
 知ってはいたが、ぞんがいしつこい……。
「それは翠が悪いんじゃなくて、印象が薄い漣の問題だろ。第一、俺は一発で覚えてもらってる」
「うわっ、それ自慢ですか!? 俺だって学年ではそこそこモテんのに」
「つまり、翠の範疇外ってことじゃないの?」
 漣はそこで口を噤んだ。

 桜並木を歩きながら、
「あぁいうの、困るなら困るでちゃんと断ったほうがいいと思うけど?」
 忠告をすると、意外な答えが返ってきた。
「えと……実はすでに一度断っているのですが――」
 ……秋兄に漣――なんで面倒な人間ばかりに好かれるんだか……。
「なるほど、懲りないやつって話か。しつこいようならなんとかするけど?」
 秋兄はともかく、漣くらいなら蹴散らせる。
 なんとなしに言っただけだった。なのに、翠は大きく目を見開き俺を凝視している。
「何?」
「なんか優しいです」
「……何度も言うけど、俺そんなに冷血漢でも心が氷でできてるわけでもないから」
「それはわかってるつもりなんですけど……。なんだか先輩が優しいと調子狂っちゃう」
 ずいぶんな言われようだ。
「……俺、翠には優しいほうだと思うけど?」
 言うと、心底驚いたような顔をするからどうしてやろうかと思う。
 "翠には優しい"――その言葉の意味を考えたりはしないんだろうか。
 願わくば、少しくらいは考えてほしい……。

 高校門を出て時間を確認すると、四時二十五分だった。あと五分もあれば公道に出る。ここまでくれば放送は聞こえないだろう。そして、四時三十五分のバスにも間に合うはずだ。
 これで俺の任務は完了。
「先輩はなんの用事なんですか?」
「オーダーしていたものを取りに行く。それだけ」
「何を?」
「行けばわかる」
 ケチ、と言わんばかりの顔をされても、言えるか……。
 プレゼントを渡すことに抵抗はない。でも、プレゼントを取りに行くという現時点でプレゼントの話をするのには抵抗がある。この差は何か――。
 考えていると、隣から脈絡もない言葉を投げられた。
「先輩、写真撮ってもいいですか?」
「……却下。それ、海斗絡みか何かだろ?」
「当たり……。どうしてわかったんですか?」
「海斗の考えそうなことだから」
「……え?」
 全然わからないって顔。
「翠はわからなくていい」
 そうは答えたものの、少しくらい頭使って考えろ、と思う自分もいた。

 窓際に座りたいと言った翠は嬉しそうに外を眺めている。
 一昨日、翠と一緒に歩いて初めて気づかされたことがあった。
 ゆっくり歩くと風を感じることができるのだと……。
 ほかにも空がどうとか道端のタンポポがどうとか、桜吹雪の中にいられるとか、そんなようなことを嬉しそうに話していた。
 今は……? 今は窓の外の何を見てそんなに嬉しそうな顔をしている?
 もしできるなら、翠の感覚で風景を見てみたいと思う。
 何がどう翠の目に映っているのか、自分でも見てみたい、感じてみたい。
 きっと、俺が見ている世界とは違うものを見ている気がするから。