今日は思ったよりも遅くなってしまった。時計を見ればすでに六時半。みんなは夕飯を食べ始めているだろう。
 神崎家のインターホンを鳴らすなり、すぐに司がドアを開けてくれた。
 突如聞こえてきたのは翠葉のハープ。
 玄関に入ると、今この家に集っている人間たちが勢ぞろいだった。
「何をして……?」
 ただハープを聴いている、という感じではない。
 空気が重い。それに、翠葉が奏でている音がいつもと違う。
「蒼くん……翠葉ちゃん、シャットアウト機能全開中」
「またなんで……」
 今日で試験が終わり、そのあとは病院で定期検査を受けたはず……。
 テストの出来が悪いくらいで落ち込むとは思えない。だとしたら、検査結果が悪かったのかっ!?
「湊さんっ、検査結果は!?」
「検査結果はいつもと大して変わらないわ。けど、検査前と検査後、何か違っていたのは確か」
 湊さんに続いて栞さんが口を開く。
「私もここまでひどい状態は初めて見たわ」
 客間のドアは開けられているものの、こちらの会話も人間がいることすら翠葉は気づいていない。
 "気づいていない"というよりは、"視界に入れていない"。
「誰が話しかけても肩を叩いてもだめなんだけど」
 海斗くんが言うと、司が言葉を足した。
「目の前に座って視線合わせようとしても無理。なんなのあれ……」
 それが何かは答えることができない。けど、それくらいじゃ今の翠葉の視界には入れないことは知っている。
 ここまでひどいのは過去に一度しか見たことがない。
 ちょうど一年前のこの時期。一度も通うことなく光陵高校を退学したときだ。
 それに匹敵するほどの何かが翠葉に起こったのだろうか。
 空ろな目をした翠葉の前まで行き名前を呼んでみた。けれども、呼びかけに応じはしない。
 肩を叩いても揺さぶってもとくに反応があるでもなく、演奏が途中で止まったり揺らいだりするのみ。その目には何も映していなかった。
 何があったんだ……。俺はまた翠葉を守ってやることができなかったんだろうか。
 たまらなくなって翠葉を抱きしめた。
「ごめん、翠葉――」
 抱きしめたことにより、ハープの演奏が途絶える。
「もういいから。こんなふうに演奏しなくていいから」
 もう一度翠葉の目を覗き込む。と、目の焦点が合った気がした。
「すい、は……?」
 言葉も耳に届いたらしく、突如目に涙があふれ出す。
「蒼兄っ――」
 翠葉はハープを放り出し、俺に泣いて縋ってきた。
「何があった?」
 訊くと、少し間を置いてから、
「大丈夫……。ちゃんと自分で消化できる」
 こう答えるときは何も話してくれない。
「話ならいつでも聞くから……」
「ありがとう……」
 しがみつく手に力だけがこめられる。そして、胸もとでか細い声を絞り出した。
「蒼兄は……蒼兄だけはずっと側にいて――」
 と。
「いるよ……。ずっと側にいる。頼まれなくても側にいる」
 その言葉に安心したのか、一瞬にして翠葉の体から力が抜けた。
「翠葉っ!?」
 すぐに湊さんが部屋に入ってきて翠葉の状態を確認する。
 一通り診てから、
「大丈夫よ。ただ気を失っただけ」
 言いながら、翠葉の目から流れる涙を拭き取ってくれた」
「すみません、ありがとうございます……」
 翠葉を抱き上げベッドに寝かせるも、意識はないはずなのに閉じた目から涙が次々とあふれる。
 いったい何があったんだ――。
 わざわざ、「自分で消化できる」と口にするほどの何が……。
 その場の空気が動く気配はなく、自分から振り返った。
「すみません、みんなご飯は?」
「まだなの」
 栞さんが答えてくれた。
「俺はもう少しついてるので、みんなは先に食べててください」
「じゃ、そうさせてもらうわね」
 と、栞さんがその場を仕切り、ドアを閉めてくれた。
 煌々とついた照明を常夜灯に落とし、眠っている翠葉の手を取る。
 細くて白い華奢な手――。
 翠葉、今度はこの手に何を抱えた?
 心が壊れる前に教えてくれ。もうこれ以上何も抱えなくていいから……。
 明日には無理にでも笑うのだろう。
 そうやって独りになろうとしないでくれ。いつでも側にいるから。
 翠葉の涙を拭うと、自分の頬を涙が伝い落ちた。