翠のことを諦めている自分もいた。でも、あんな顔を見たら、引くに引けない――。
 秋兄といる翠が幸せそうに見えたから、翠があんなふうに笑っているならそれでいい。
 そう思ったのは事実だ。
 生徒会のメンバーには散々けしかけられはしたが、俺が見たいのは翠の笑顔であって困った顔じゃない。
 でも、秋兄の側にいることであんな顔をする羽目になるのなら、俺は引けないし諦めることもできない。
 自分で、この手で翠の笑顔を守りたいと思う。
 翠が好きなのは秋兄。それは百も承知だ。
 けど、それでそんな顔をするくらいならやめておけ。俺にすればいい……。
 どちらにしろ、翠は秋兄にいい返事をするつもりはない。否、できなくなった、と言ったほうが正しいか……。
 それは俺にとっては幸いなことでも、翠の気持ちを考えれば喜ぶわけにもいかず……。
 本当は雅さんに何を言われたのだろう。
 翠はきっと、俺に全部を話してはいない。それを知るには――。
「やっぱり秋兄に言うしかないか……」
 翠は知られたくないのだろう。
 口止めはされなかった。が、知られたいと思っているわけがない。
 これからの二ヶ月、自分の体と闘うことになるという翠。
 どんな形でもいい。少しでも力になれたら、支えになれたら、と思う。
 それが今の俺にできる精一杯――。

 明日、翠を市街に連れ出す約束も取り付けた。
 正直、いつ話を切り出そうかと思っていただけに、話す機会が得られて良かった。
 翠、簾条たちクラスの人間や生徒会メンバーはおまえを喜ばせたいらしい。
 そんなところは俺と変わらないかもしれない。
 髪をなびかせ歩く翠を見て、櫛を手にするところを想像した。
 プレゼント、喜んでもらえるといいんだけど……。
 何せ、血縁者以外にプレゼントをするのは初めてのことで要領を得ない。
 ただ、毎日使ってもらえるもので持ち歩いてもらえるものを探していたら、柘植櫛にたどり着いた。
 ひとりで答えを出せて良かったと思う。
 こんな相談を誰にできるとも思えない。
 朝陽あたりは楽しそうに聞いてくれるのかもしれないが、俺がそれに耐えられない。茜先輩も同様。そのほかは問題外……。
 これから先、どれだけ"恋"というものにペースを狂わされるのか――。
 考えると少し憂鬱にもなる。
 それでも翠の笑顔を見たいと思うし、あの声を聞きたいと思う。
 これは立派な恋なんだろうな。
 しかもライバルが秋兄とは……俺もつくづくついてない。

 秋兄、か――。
 今日のことを話すなら夕飯前かな。
 部室棟に戻ったはいいが、これではとても精神統一はできそうにない。
 ふと隣の図書棟を見る。
 ここからでは秋兄の仕事部屋は見えない。でも、そこには確かに秋兄と翠がいる部屋がある。
 翠は絶対に自分からは話さないだろう。
 けれど、今日あったことを隠せるほど器用な人間でもない。
 そして、それに気づかない秋兄でもないはずだ。
 先に帰って秋兄が帰って来る頃を見計らって報告に行くのが妥当だな……。
 俺はロッカーからかばんを取り出し部室棟をあとにした。