時間になり栞さんの家へ行くと、御園生さんが玄関に佇んでいた。
「玄関で何して――」
「翠葉が秋斗先輩の家で遭難してるっていうかなんていうか……」
「は?」
 この人、頭回ってるんだろうか……。
 廊下の向こうに顔を出した姉さんに視線で訊くと、
「秋斗が翠葉を拉致監禁」
 ますますもって意味不明……。
「海斗」
 何があったのかを説明しろと視線を向けると、
「今日翠葉の誕生日じゃん? 秋兄がランチをご馳走するとかで、家に連れ込んだらしいんだけど、この時間になっても連絡取れないは、秋兄の携帯電源落とされてるは、固定電話の回線抜いてるは……って状況。今、栞ちゃんが隣に乗り込んでった」
 それで御園生さんはこんなことになっているわけか……。
 でも、状況を知った途端に自分の心も波風立ち始めた。
 だいたいにして、なんでランチで秋兄の家なんだ……。
 秋兄は料理を一切しない。秋兄があの家にあるもので人様に出せるものといえばコーヒーくらいなものだ。けれども、翠はカフェインが一切飲めない。
 それに、学校が終わってから秋兄の家へ行ったのだとしたら、すでに五時間近くが経過している。
 イライラしながら本を読んでいると、玄関で物音がした。
 どうやら栞さんが翠を連れて帰ってきたらしい。
 リビングに姿を現した翠の背後には、べったりと御園生さんが背後霊よろしく貼りついていた。
 それもどうかと思うけど……。
「あの男、手ぇ早いんだから気をつけなさいよ?」
 姉さんの言葉に翠は口を噤んで下を向いた。
 なんていうか――。
「無防備すぎるのは犯罪だと思う」
 下を向くくらいならもっと早い段階で警戒しろ、と言いたい。
 御園生さんも大切に守ってるだけじゃなくて、必要最低限の知識は備えさせるべきだと思う。じゃないと、いつか痛い目を見るのは本人だと思うし。
 翠は方々に、「ご心配おかけしました」と頭を下げた。
 そして、ダイニングテーブルに目をやると、ほっとしたような表情を見せ、すぐに不安そうな表情に改める。
 何を考えているんだか……。
 すると、キッチンから栞さんの声がかかる。
「このほかにビーフシチューとパンがあるの」
 あぁ、食事のボリュームか……。
 今、テーブルに並べられているのはつまんで食べるようなものが多い。翠にはちょうどいいけど、俺や海斗からしてみたら、物足りないといった感じの料理。
 それはきっと翠向けに作られた数々。
 何よりも今日は翠の誕生日だし、翠のために栞さんが腕を揮ったのだろう。
 定位置となりつつある席に翠が移動したとき、手に持っていたルーズリーフを渡した。
「古典と英語。押さえておいたほうがいいところ」
「え?」
 驚いた顔でルーズリーフに視線を落とす。
 今回は秋兄のノートを使って勉強していることは聞いていた。でも、それで自分が何もしないのは癪だから、自分なりにノートをまとめてみた。
「ありがとうございます……」
 翠は忘れているのかもしれない。でも、俺は前に言ったよな。模試の対策なら一緒に練るって……。
 そういうの、忘れてくれるな。
「さっき海斗から聞いた。中間考査、古典以外は全部満点だったって」
「あ、そうなんです。でも、学内テストだから……という話で、全国模試は不安だらけです」
「うちの学内テストでそれだけ点を取れるなら模試でそこまでひどいことにはならないと思う。それさえ覚えられれば九十点は固い」
 秋兄のノートでも同等の点数は取れるだろう。だとしたら、翠はどちらのノートを頼ってくれるだろうか……。
「翠葉、あんた見かけによらず頭いいのね? 中間考査中に受けた未履修分野のテストも全部パスしたんでしょ?」
 翠は姉さんの言葉に苦笑いを返しつつ、
「でも、一位じゃないし……。ましてや司先輩みたいに全科目満点でもないですし。蒼兄が目標だからいつか一位取りたいです」
「あら、意外と貪欲ね?」
 俺もまさか一位を狙ってるとは思っていなかった。でも、御園生さんが目標という言葉を聞けばすんなりと納得する。
 御園生さんは病的にシスコンだけど、翠もそれに負けないくらいブラコンだ。
 でも、そうやって兄の通った道をたどってどこまで追いかけるつもりなんだか――。

 テスト前、テスト期間に人が集まって夕飯を食べるのはいつものことだけど、いつもと違うのは、そこに御園生兄妹が加わったこと。
 何も変わらないように思える。でも、部屋の雰囲気が若干柔らかい気がした。
 そう思っているのは自分だけだろうか……。
 テーブルに着く面子に視線をめぐらせる。と、翠を見る姉さんの表情が優しく見えた。
 姉さんがあんな表情をするくらには雰囲気が柔らかなものだと思って間違いないだろう。
 咄嗟に自分と姉さんが瓜二つであることを思い出す。
 ……俺もあんな顔をしているのか?
 一瞬にして眉間に力が入った。
 姉さんと同じ顔とか勘弁してくれ――。
 食事をすることに集中しようと思うものの、斜め前に座る翠が気になって仕方がない。
 なんの変化もなく戻ってきたように見えるけど、本当に何もなかったんだろうか……。
 でも、一緒にいたのはあの秋兄なわけで、キスくらいは朝飯前な気がしてならない。
 翠相手なら俺でもできそうだ。
 何を言っても疑うことなくついてきそう……。
 八時近くなると、栞さんがパン、と手を打った。
「さっ! そろそろ八時ね。三人は勉強に戻ったほうがいいんじゃない?」
 栞さんの一言でお開きになるのもいつものこと。
 俺は席を立った翠に声をかけた。
「不安な科目があるなら見るけど?」
「え……? いいんですか? でも、先輩自分の勉強は?」
 きょとんとした顔で訊かれる。
「粗方済んでる」
 ……というよりは、テスト前であってもさほど勉強をしない、というのが正しい。事前に過去問に目を通せばそれで終わりだ。
 今は何よりも翠が気になって仕方なかった。
 けれども翠からはなかなか返事が聞けない。
「いらなければ帰る」
 言って背を向けると、
「待ってくださいっ」
 と、シャツの裾を引張られた。
「あの……できれば英語と古典、ご教授ください」
「了解」
 引き止められたことを嬉しく思いつつ、やっぱり無防備だな、と思う。
 秋兄じゃないし何をするわけでもないけど、男とふたりきりになることになんの警戒もしないってどうなの?
 思いながら翠が客間として使っている部屋に入った。

 翠が海斗を見送って戻ってくると、
「そっち座って」
 座る場所を指示すると、
「お手柔らかにお願いします」
 と、丁寧に頭を下げられた。
「……それは翠しだいかな」
 何はともあれ、全国模試に不安を抱えていたのは知っていたから、教えるつもりではいた。
 そのために渡したさっきのルーズリーフを取り出す。
「理系と社会科は問題ないの?」
 訊くと、翠のスイッチが切り替わったのがわかった。
 姉さんと同じだ。どこかにスイッチがついていて、急に切り替えを済ませる何か。
「たぶん……? 過去問では九十点以上クリアできているので、あとはテストを受けてみないことにはわからない感じです」
「じゃ、そっちの過去問から。好きな教科からやっていいけど、制限時間五十分のところ全部三十分以内で終わらせて」
「えっ!?」
 あらかじめ用意してきた問題と答案用紙をテーブルに置くと、腕時計のストップウォッチをセットする。
「五、四、三、二、一、始め」
「わっ、シャーペンっ」
 翠は慌てて筆記用具を手にして問題を読み始めた。
 俺はとくにすることもなく、読みかけの本を開いて翠を観察する。
 長い髪は邪魔にならないように左側へとまとめられている。そのしなやかな髪に触れてみたいと思った。
 長い睫は頬に影を落とし、瞬きをするたびに音がするんじゃないかと思うほど。
 数学から始めた翠は、問題を目にすると数秒してすぐに答えを記す。相変らず頭の中で計算をしているらしかった。その計算速度に自分が追いつけるか問題を目で追う。けれども、俺が答えを出す直前で翠の手が動く。ということは、タッチの差で俺よりも早くに答えを出しているということ。
 なかなかお目にかかれる人間ではない。
 数学に関し点はノンストップで問題を解き、二十分という時間で終わらせた。
 もちろん満点クリア。
 難しい問題ばかりを並べていたわけではない。だからといって、簡単な問題ばかりが並んでいたわけでもなく……。
 やはり根っからの理系人間なのだろう。
 理科も似たり寄ったりの状況で満点クリア。
 社会科においては問題を読む間は手が静止する。けれども答えを見つけた途端にコツコツと規則正しい速度で文字を記しだす。
 半分まで終えると、テーブルから体を離して深呼吸。またすぐに問題用紙に噛り付く。
 途中数問解けない問題があり社会科は三十分で九十五点。
「まずまずってところか……」
 このやり方を三教科続けたところでぐれるのは海斗だ。
 ここに海斗がいたなら、間違いなく「休憩にコンビニ行ってくる」と席を立ったことだろう。
 翠はというと、集中力が途絶えることなく次の科目に頭を切り替えていた。
 考えてみれば、中間考査中に未履修分野のテストを全教科パスしてたんだったか……。
 あれは平均して二十二分だったはず。だとしたら、三十分は与えすぎだったかもしれない。
 現に、翠は三十分かけずにそれぞれの教科を終えていた。
「じゃ、あとは英語と古典だな。このルーズリーフの表裏全部覚えて。時間は二十分、そのあとにテストする」
 翠は意を唱えることなく黙々とルーズリーフに目を通す。二十分が経ち、
「はい、終了」
 問題用紙を渡すと、俺の合図を待っていた。
「始め」
 その声を聞くと問題用紙に視線を移す。
 たぶん、今はシャットアウト機能全開だな。俺が真正面から見ていても気づきもしない。
 あぁ……わかった。翠は両極端すぎるんだ。
 どうでもいいところで警戒していて、警戒すべきところで無防備だ。
 基準のすべてがずれている気がしてならない。
 思考回路を読もうとしても予期せぬ反応が多すぎて予測不可能。
 もしも頭の中を覗けるのなら、翠の頭を見てみたい。
 そんなことを考えていると、腕時計がタイムリミットを知らせる前に翠が答案用紙をこちらに滑らせた。即ち、終わったということ。
 俺は次のルーズリーフを渡し、今解かせた問題の答え合わせをする。
 苦手科目な割にはできている。
 翠はケアレスミスがない。計算ミスもなければスペル間違いなどもない。
 翠が解けない問題のほとんどが空欄なのは、どれだけ考えても答えの一端も見えてこないものに限られるのだろう。
「はい、終わり。この問題解いてて」
 タイマーをセットするとき、十時を回っていることに気づいた。
 八時から始めて二時間……。そろそろ糖分を摂らせたほうがいい。
 俺は席を立ちキッチンへ向かった。