昼食の用意をしているとインターホンが鳴った。
「あら、おかしいわね? 翠葉ちゃんは秋斗くんとランチのはずだけど……」
 作りかけのものはそのままに玄関へ行くと、制服姿の翠葉ちゃんが立っていた。
「おかえりなさい」と言うべきなのだけれど、疑問が口をついた。
「秋斗くんとランチは?」
「それが、ウィステリアホテルにデリバリーをお願いしてあるらしくて、秋斗さんのおうちで食べることになっていて……」
「あのホテル、デリバリーなんてしてたかしら?」
 静兄様がホテルの品格を落とすような真似はしないだろう。ともすれば、秋斗くんが無理を言ったのだ。
「なので、制服を着替えに帰ってきました」
 客間に入った翠葉ちゃんはボストンバッグから洋服を取り出す。持ってきた洋服を並べて何を着ていくか悩んでいるみたい。
 好きな人と会うのに洋服を選ぶのは恋の醍醐味ね。
 そんなことを思いつつ、
「秋斗くんとふたり?」
「ほかに誰が来るとは聞いてないです」
 一瞬にして思い出されたのは、彼女の部屋でキスをした秋斗くんの姿――。
「大丈夫かしら……」
 思わず心配が声になる。
「……何がですか?」
「ううん、こっちの話。美味しいものを食べていらっしゃい」
「……はい」
 若干疑問を残したまま返事をした彼女。
 あぁ、ぜひとも私の妹に欲しいわ。なんだったら娘でもかまわないのだけど……。
 翠葉ちゃんなら昇も気に入るはず――じゃなくて、さすがにこれは牽制せずにはいられないわね。
 リビングに戻り携帯を手にすると、牽制メールを作成した。そして、翠葉ちゃんが家を出たと同時にメールを送信する。
 けれども、しばらく待っても返信がくることはなかった。
 なんだかものすごく不安……。
 普段はかわいい再従弟だけれど、何分女癖が悪い。今までの素行を知っているだけに不安になる。
 しかも、彼の家だなんて、まんまホームグラウンドじゃない。
 これは数時間おきに牽制しなくちゃ……。
 蒼くん、碧さん、零樹さん――翠葉ちゃんは必ず私が守りますからっ。

 落ち着かない中、自分も昼食を取り携帯を横目に見ている。
 さっきから音沙汰なしだ。
 秋斗くん、本当に何かしたら容赦しないわよ?
 そもそも、翠葉ちゃんが秋斗くんにべったりになったのは雅のせい……。
 あの子も不幸な境遇と言えばそうなのだけど、やっぱり行いは悪いと思う。
 藤宮雅(ふじみやみやび)二十四歳――藤宮朔(ふじみやさく)と妾の子。
 藤宮朔とは私と静兄様の伯父にあたる方。
 残念なことに、朔伯父様と本妻の間には子どもができなかった。ゆえに夫婦間がうまくいかず、けれども世間体を気にして離婚することもせず……。
 結果、朔さんが通いつめていたお店のホステスが身篭り、生まれた子が雅だ。
 そのホステスは子どもができれば自分が本妻の座につけると思っていたようだけど、実際にはそんな簡単な話ではなく、朔伯父様自身にも本妻と別れるつもりはなかったようだ。
 子どもを使って藤宮入りを考えていたホステスは、思いも寄らない展開に子どもを捨てた。
 生まれながらにして、誰にも望まれていなかった子。それが雅だ。
 その雅を引き取ると言い出したのは本妻らしい。そこにどんな思惑があったのかは定かではない。
 ただ、愛人の子どもを引き取ることには相当な抵抗があったことだろう。
 事実、本妻は雅をかわいがることはなかったし、朔伯父様も子育てに時間を費やすような方ではなかった。
 そんな雅の面倒を見てきたのは住み込みのお手伝いさんたちだ。
 お手伝いさんたちは誰もが雅を不憫に思い、甘やかして育ててしまった。
 彼女たちにとっては仕える家のお嬢様でもあるのだから、当然のことだったかもしれない。
 私たちの祖父も同様で、彼女をひたすら甘やかして育てた。
 その結果がこれだ……。
 今となっては誰も手をつけられないほどのワガママ姫。
 翠葉ちゃんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらいだ。
 でも、誰が悪い何が悪いとは言えないのかもしれない。
 "藤宮"の姓をもつ雅を親族連中が放ってはおかなかったし、雅を担ぎ上げようとする大人は少なくなかった――。
 本人以前に小さい頃から大人たちの歪んだ感情の狭間で育った子。それが雅だ。
 環境が今の雅を作り上げてしまったことは否めない。
 そう思うと、藤宮に引き取られたことが雅の運命を左右してしまったことになる。
 今一番の問題は、おじい様が彼女に渡したクレジットカード。カードの支払額は膨らむ一方で、家は火の車だという。
 噂ではホストクラブ通いをしているようだし、そろそろ静兄様が動く頃だとは思っていたけれど、ようやく……なのね。
 早いところ片付けてもらいたい。翠葉ちゃんに害が及ぶ前に……。

 気がつけば二時近かった。
 いくらなんでもランチは終わっているわよね……。
 もう一度メールを送っておこうかしら……。


件名:牽制メールだから
本文:そろそろランチは終わった頃
   かしら?
   変なことをしようものなら
   静兄様と湊に言いつけるわよ?
   それとも会長がいいかしら?


 われながら効果的な人選だと思う。
 静兄様と湊には秋斗くんも逆らえないでしょうし、彼の祖父である会長の言うことにはもっと逆らえないだろう。
 これでまた数時間はのんびりできるだろうか。

 リビングのソファに横になるとしばらく眠っていたようだ。
 時計を見ると三時だった。そろそろ帰ってくる頃かしら?
 そう思って翠葉ちゃんにメールや電話をしても出ない。秋斗くんの携帯からは耳を疑うアナウンスが流れてくる。
「秋斗くん、携帯の電源落としたわね……」
 先日のキスの件は誰にも言わないでいる温情厚いこの私に対してそんなことしていいと思ってるのかしら?
 すぐに固定電話の番号へかけた。五コールほどしたところでやっと出た。
「ちょっとっ、何携帯の電源落としてるのよ」
 自分でもわかるくらいの低い声。向こうからは乾いた笑いが聞こえてくる。
「ははは、じゃないっ! 私の大切な翠葉ちゃんは無事なんでしょうねっ!?」
『そもそも、ことに及んでたらこんな電話鳴ってても出ないし……』
「それもそうね……。ところで翠葉ちゃんは?」
『アルバムが見たいって言うからアルバム見せてる』
 なんだ、意外と普通に過ごしてるじゃない。
 翠葉ちゃんが写真を好きなのは知っているし、それが好きな人の過去ともなれば興味が湧かないわけもない。そのくらいの乙女心はわかるつもり。
「あら、そう。ならいいわ」
 と、電話を切った。
「じゃ、私は彼女の誕生パーティーの下ごしらえでも始めようかしら」
 あの子の食欲は日に日に落ちていく。それは、毎日見ている私でも気づくくらい顕著に。
 湊もにも言ってはあるけれど、模試が終わるまであの子の意見を聞くという姿勢を崩すつもりはないみたいだし……。
 けれども、最近は少しコツを掴んだ。つまんで一口で食べられるものなら時間をかけ、お茶を楽しみながら食べてくれる。
 だから、今日もそういったものを数多く作る予定。
 時間はかかるけど、料理は好きだしあの子の喜ぶ顔を見たいとも思う。
 だから、全く苦には思わなかった。