朗元さんの作品はレジの斜め前の棚にひっそりと置かれている。
 大々的にコーナーが作られているわけでもなければ、誰の作品である、と大きく書かれているわけでもない。
 ただただひっそりと存在しているその感じも好きだった。
 朗元さんの作品は数ヶ月に一度入荷される程度で、品数も多くなければ、商品が動くことも少ない。
 こんなにすてきなカップなのに、人に気づかれることがないなんて――。
「もったいないな……」
 今日入荷されたというカップを手に取る。
 淡い藤色のようにも見えるし、淡い群青色のようにも見える。
 その、どちらとも言えない色味に強く惹かれた。
 少しザラっとした表面と、ツルツルとした面を併せ持つカップ。
 取っ手は指を入れるところは丸く、形自体は四角い。
 一見して持ちにくそうに見えたけれど、持ってみるとそんなことはなかった。
 今までにもこういう形のカップを買ったことはあるけれど、ここまで手に馴染むものは初めて。
「どうしてコーヒーカップだけなのかな……。ティーカップもあれば嬉しいのに」
「お嬢さんはコーヒーは飲まないのかね?」
 後ろから声をかけられてびっくりする。
 振り返ると、白髪の和服を着たご老人がいらした。
「おや、びっくりさせてしまったかの?」
 と、きれいに整えられた口髭を触る。
「……いえ、少し驚いただけです。それと、私はコーヒーを飲みません。なので、このカップ&ソーサーは毎年兄の誕生日にプレゼントしています」
「ほぉ、毎年かの?」
「えぇ、先月買ったもので六客目でしたから、六年目ですね」
「では、お嬢さんが私のファン一号さんかの?」
 にこりと笑われ、その言葉の意味にびっくりする。
「……おじいさんが朗元さん……?」
「いかにも。ちょっと奥でお茶でも飲まぬか」
 優しく微笑まれ、申し出を受けることにした。
「お嬢さんはいつも何を飲まれるのかの?」
「ハーブティーを。カフェインが体質に合わないので、コーヒーや紅茶は飲めないんです」
 答えると、おじいさんは店員さんに声をかけた。
「芦田(あしだ)さん、彼女にカフェインレスのコーヒーを」
 カフェインレスのコーヒー……?
 私の視線に気づいたおじいさんは、
「最近ではカフェインレスのコーヒーも紅茶も珍しくないのじゃよ」
「知りませんでした」
「もしよろしければ、何を気に入ってこのカップを毎年求めてくれるのか、教えてくれぬかの?」
 おじいさんは笑みを絶やさずに話しかけてくれる。
「……手なじみ、でしょうか。手にほっこりとおさまる形や質感がとても好きです。あとは色……。何色とは断定しがたい色に心惹かれます」
 言いながら、先ほどのカップに目を向ける。
 ベージュっぽい下地に藤色と藍色が混ざったような色味のカップ。
「あれがお好きかな?」
「とても……。色味が好きです」
「あの色は、妻がとても好きだった色なんじゃ」
「奥様が……?」
「六年前に他界したがの。……それをきっかけに陶芸を始めたんじゃ」
 こういうとき、どんな言葉をかけたらいいのだろう。
 黙りこんでしまうと、
「気にするでないぞ?」
 と、顔を覗き込まれた。
 その顔があまりにも穏やかで不思議に思う。
「大切な方が亡くなられるというのは、やはり寂しいものでしょうか」
 気づけばそんな言葉が口から出ていた。
「そうじゃのぉ……。わしは二十三で結婚してな、今年で八十八になる。八十一まで連れ添ったので六十年近く一緒にいたことになるが、思い出がたくさんあろうとやはり寂しいかのぉ」
 訊くまでもなかったかもしれない。
 思い出があってもその人が隣にいなければ寂しくないわけがない。
「あれは、"うつりゆく時"と称した作品じゃが、お嬢さんは何かお悩みかな?」
 顔を上げると、そこにはビー玉のようにきれいな目があった。
 何もかも見透かされてしまいそう……。
「そう、見えますか……?」
「そうじゃな。何か悩んでおるのか……迷っておるように見える」
 悩む、はたまた迷う――どちらであっても間違いではない。
 大切なものを増やすのが怖くて、だけど好きになった人がいて、その人と一緒に過ごせるという選択肢を前に大きな不安を感じていた。
 どうしてか、"怖い"という感情が心に居座っている。
「大切な人が増えるのが怖いんです。かけがえのない人が増えていくことが――」
 とても怖い……。
「それはまたどうしてかの? 世間一般的に考えればとても幸せなことじゃろう?」
 そこへ、「失礼します」と先ほどの店員さんがコーヒーを持ってきてくれた。
 手際よくテーブルにカップを置くと、すぐに下がる。
 どうやら私とおじいさんのコーヒーはものが違うらしい。
「カフェインレスはあるが、やはりわしにはカフェインが必須じゃ」
 朗元さんは笑いながらブラックコーヒーを口に含んだ。
 私はお砂糖とミルクを入れていただく。けれど、口にして何かが足りない、と感じた。
 この場合、抜かれているものはカフェインなのだから、カフェインの不在に物足りなさを感じているのだろうか……。
 首を傾げていると、
「何かが足りないという顔をしておるの」
 ふぉっふぉっふぉ、と笑われる。
「それがカフェインなんでしょうか?」
「そうじゃろうな」
 と、笑って答えてくれた。
「さて、先ほどの話じゃが……。どうしてそう思うのかの?」
「……失うのが怖いから、かな。両手で掬った砂が、少しずつサラサラと零れていってしまうような、そんな気がするんです」
「ふぅむ……。じゃがお嬢さん、手に入れる前から失うことを考えていたら、欲しいものは手に入らんよ?」
「はい……。だから、今ならまだ間に合う。それ以上を望まなければいいと思う自分もいて……」
「……人間は欲する生き物じゃ」
 欲する生き物……?
「欲することを辞めたとき、その人は人生の半分を捨てたことになるじゃろうな」
 人生の半分……。
「お嬢さん、たとえ失ってしまったとしても、じゃ。失うまでに得たものまで失くすわけじゃない。それは覚えておいたほうが良いぞ」
「……はい」
 カップを掴んでいた私の手におじいさんのしわしわの手が重ねられる。
 その手はとてもあたたかかった。このしわひとつひとつがおじいさんの歴史なのかと注意深く見る。
「あれのティーカップを作ろう。そして、いつかお嬢さんに届けよう」
 そう言うと、「わしはこれから仕事での」と立ち上がった。
 私も椅子を立とうとしたら、
「お嬢さんはもう少しゆっくりしていかれるといい」
 と、静かに行動を制された。
 おじいさんは、「いずれまた」と言い残してショップをあとにした。
 なんだか不思議なおじいさんだった。まるで魔法使いみたいな人。
 そんな方が大好きな陶芸作家さんであることが嬉しい。
 普段、なかなか人に話せないことを話せたからか、心が少しすっきりした気がする。
 一日早いけど、神様からの誕生日プレゼントだったのかな……。