「そういえば……翠葉、何か食べたのか?」
「……食べてない、というよりは何も飲んでない、かな」
「えっ、そうなのっ!?」
 蒼兄は「やっぱり」という顔をし、秋斗さんは驚いた顔をしていた。
 蒼兄はすぐに立ち上がり部屋から出ていく。
 きっと、キッチンから何かを持ってくるのだろう。
 でも、何かを食べたいと思うこともなければ、何を食べられる気もしない。
 飲み物だといいな……。
 不安に思いながらリビングの方を見ていると、急に視界の大半が秋斗さんの顔で埋めつくされた。
「わっ――」
「……っていうか、目の前にいるんだからそんなに驚かなくてもいいでしょう?」
「……突然はびっくりするんですっ」
「そっか。ごめんね?」
 謝ってはいるけれど、全然「ごめん」とは思っていなさそうな笑顔。
 そこへ蒼兄がペットボトルふたつとグラスを手に戻ってきた。
 手に持っていたペットボトルはポカリスエットとミネラルウォーター。
 ポカリスエット一に対し、ミネラルウォーターを三の割合でグラスに注いでくれる。
「なんで割ってるの?」
 秋斗さんの疑問に蒼兄が苦笑した。
「翠葉、スポーツドリンクそのままじゃ飲めないんですよ。普段なら半々くらいで飲めるんですけど、今はたぶんこのくらいに薄めないと飲んでくれない。だろ?」
 言いながら、蒼兄にグラスを渡された。
 私はコクリと頷きそのグラスを受け取る。
「少しずつでいいから二杯は飲んでくれ」
 少し遠慮気味にお願いされた。
「本当に濃い味が苦手なんだね?」
 秋斗さんは珍しいものを見るような目で私とグラスを見ていた。

 六時を回ると栞さんが帰ってきて、
「あ、翠葉ちゃん起きてるわね? それ、ポカリスエット? きっとお水で割って飲んでるんだろうから二杯は飲んでほしいわ」
 と、蒼兄と同じことを口にする。
「今、二杯目を飲ませてるところです」
 蒼兄が答えると、「ならよろしい!」と部屋を出ていく。
 これから夕飯の支度に取り掛かるのだろう。
 やっぱり夕飯は食べなくちゃダメだよね……。
 学校へ行っているときは何か食べないと体がもたない、と崖っぷちの心境でなんとかものを口にしていたけれど、家で寝たままともなると、そんな気も起きない。
 でも、全国模試まではがんばらなくちゃいけない、と思えばそんなことも言ってられないわけで……。
 手元のグラスに半分残る液体を見てはため息が出る。
「食べるのって結構苦痛だったりするの?」
 秋斗さんに顔を覗き込まれた。
 心臓の駆け足はまだ始まっていない。けど、これを何度もされたら間違いなく駆け足を始める。
 秋斗さんを視界に入れるのは得策とは思えなかった。
 若干視線を逸らし、フローリングを見つめながら思ったことを口にする。
「秋斗さん……。無駄に心臓が動きそうなので、その手の行動は控えていただけませんか?」
「……翠葉ちゃん、それは一種告白と取ってもよろしいのでしょうか?」
 え……?
「あ、れ……? 今、私なんて言いましたっけ?」
「……だから、無駄に心臓が動くって……」
「それ……告白? なんの告白?」
 訊く、というよりは自問自答の域。
「あれ? 僕を見てドキドキするのはそういう意味じゃないの?」
 耳に届いたその言葉を一生懸命理解しようとする。
「……そっか、そうですよね。……あれ? ……私、今、口にしてはいけないことを言ってしまった気がするんですけど――どうして?」
 思わず、左側に座る蒼兄の顔を仰ぎ見る。
「いや、別に言っちゃいけないってわけじゃないと思うけど……。翠葉、カロリー足りてなくて頭回ってなさすぎ」
 呆れてものが言えないって顔をされる。
「翠葉ちゃん、今のはさ、僕のことを好きって言ったも同然だよ?」
 秋斗さんが満面の笑みで説明をしてくれた。
「……え、あ……わっ――」
 しまった、と思ったときにはすでに時遅しだった。
 一気に顔が熱くなる。
「くっ、反応遅っ」
 蒼兄がお腹を抱えて笑い出す。
 秋斗さんはずっとにこにこしていて、私は頭から湯気が出そうなくらいに顔……というよりは首から上が熱い。
「今の、記憶から削除していただけると嬉しいのですが……」
 ダメもとでお願いしてみると、
「どうして?」
 と、尋ねられた。
「えと……私が困るから」
「……そうなの?」
「そうです。だから、聞かなかったことにしてください」
 もう秋斗さんの顔なんて見られない。
 ずっと蒼兄の顔を見ながら秋斗さんに向かって言葉を発している。
 隣で、秋斗さんがおかしくてたまらないといった感じで笑いだした。
「翠葉……。気持ちはわかるけど、俺を見たまま秋斗先輩に話しかけるなよ。俺が翠葉に話しかけられている気がするじゃん」
 ばっちりと視線を合わせている蒼兄は顔を引きつらせている。
「だって……蒼兄を見てるほうが落ち着くんだもの……」
「いや、そういう問題じゃないだろ……」
 と、言いつつも、蒼兄は私の視線を避けずに答えてくれる。
「本当におかしな子だね。そもそも、なんで困るの? その思考回路がわからない。だって、僕はすでに翠葉ちゃんに好きだって伝えているのにさ。――でも、面白いから聞かなかったことにしてあげる」
「いや……俺には翠葉の考えもわからなければ、そこで納得しちゃう秋斗先輩の心境もわかりかねるのですが……」
 蒼兄がこめかみを押さえながらため息をついた。
 そこへ、
「私も蒼くんと同意見」
 と、栞さんの声が追加される。
 ドアの方を見ると、エプロン姿の栞さんが立っていた。
「なんの話をしているのかと思えば、えらく奇妙な会話を聞いちゃったわ」
「変わった子だよね?」
 秋斗さんが同意を求めると、
「そうね。一筋縄じゃいかなそうね」
 と、栞さんは答えた。
「さ、夕飯の準備ができたからご飯にしましょ! 翠葉ちゃんにはアンダンテのケーキ買ってきたわ。いつも同じものじゃ飽きちゃうから、今日はチーズタルト」
 栞さんのその一言で、その場が収拾された。

 理美ちゃん――。
 理美ちゃんは好きな気持ちは知られて何ぼって言っていたよね?
 私もね、少しはそう思ったの。
 でも、実際は意外と恥ずかしくてうまく対応できないみたい。
 なんて言うんだろう……?
 打てば鳴る――かな。
 打つだけならまだ良かったのかもしれないんだけど、それに"鳴る"がつくのはちょっとつらい。
 どちらかというならば、私は片思いのほうがいいみたい。
 "両思い"ってすてきな響きだし、きっと幸せなことだと思う。
 でも、その先が怖い。
 怖くて一歩も進めなくなっちゃいそうなの。
 だから、その先を進む必要がなくて隣にいられるのがいいな。
 たとえば、世間話をしたり他愛もない話をして楽しかったり嬉しかったり。
 私はそれで十分。
 その先は要らない。その先は見たくない――。