あのあと、私はまた少し眠っていたらしい。
 制服のポケットから携帯を取り出すと、六時を回ったところだった。
 ここへ運ばれたのが四時過ぎとすれば、二時間は横になっていたことになる。
 点滴はあと三十分もすれば終わる残量。
「体、少し起こしてみようかな……」
 今の自分がどれくらい体を起こしてられるのかを知りたい。
 上体を少しずつ起こし、壁に背を預ける。
 たったそれだけの動作で血が下がっていくのを感じていた。
「困ったな……」
 どうやったら学校生活を送れるんだろう……。
 薬を飲まなければ痛みが出る。痛みが出れば鎮痛剤を使わなくちゃいけない。そしたら胃が荒れて物が食べられなくなるだけではなく、血圧も体温も下がる。
 いいことは何もない……。
 薬を服用することで痛みをある程度抑えることはできる。けれど、この状態じゃどうしたって学校には通えない。
 どうしたらいい? 何か方法はないの――?

 コンコン――。
「はい」
 ドアが開くと湊先生が入ってきた。
「どう?」
「だいぶ、楽になりました。……でも、体を起こしているのはかなりきついです」
「そりゃそうでしょう? 数値自体がすごく低いもの。こんな数値で普通に過ごされたら医者なんていらないわよ」
 と、モバイルディスプレイを見せられた。
 七十八の四十八――。
 確かに低い。いつもなら自宅安静を申し渡される数値だ。
「先生、私……あと二ヶ月、どうやったら学校に通い続けられるだろう……」
 訊くと、先生はものすごく驚いた顔をした。
 そのあと、
「少し進歩したじゃない」
 と、片方の口端を上げて笑った。
「進歩、ですか?」
 先生は秋斗さんが掛けていたスツールに座り、長い脚を組む。
 癖なのか、いつも組んでいる足は右が上。
 細くて長い足がとてもきれいに見える角度を心得ているよう。
「少し前なら、すぐに辞めることを考えたんじゃない?」
 言われて、はっとした。でも、
「……同じことです。これからの二ヶ月、学校に通えなければ出欠日数や単位もろもろを落として進級できなくなりますから……」
「……学校に登校さえしていればなんとかならないこともない」
 え……?
「保健室で授業を受けるシステムも整っているのよ」
「……そうなんですか?」
「嘘なんてつかないわ。学校案内のパンフレットや公にされる資料には載ってないけどあるのよ」
 知らなかった……。
「もちろん、授業を出席扱いにするわけだから、課題もクリアしないといけないけど……。うちの学校、学力のある生徒には慈悲深いの。蒼樹はそれも知っていて翠葉にこの学校を勧めたはずだけど? まさか聞いてないの?」
 首を左右に振って知らないことを伝える。
「去年の秋頃だったかしら? 私のところへ訊きに来たのよ」
 私と両親が平行線の話し合いをしているとき、蒼兄は痒いところにも手が届くような外堀を埋めてくれていたことを新たに知る。
「けど、学校に通えていればって話だから、あんたは学校までがんばって来なくちゃいけないけど」
 そう……まず突破しなくちゃいけないのはそこだよね。
「先生……」
「何?」
 ダメもとだけど、これ以外の方法が思いつかない。
「薬の分量を増やすの、全国模試のあとじゃだめですか?」
 湊先生の目が見開いたのがわかった。まるで、「何を言い出すんだ」って顔。
 私もそう思う。そう思うんだけど、これ以外の方法が思いつかないの。
「全国模試って、来月の頭よね?」
「はい。六月の二日です」
 あと一週間ある。
「ちょうど入梅が予想されている頃か……」
「この状態じゃ勉強できそうにないんです。でも、勉強しなくちゃ危ない科目がいくつかあって……」
 湊先生は一度私を見て、視線を前方に戻す。
 どうしようか考えている横顔……。
 私の方に向き直り、真正面から見据えられた。
「薬の投与が遅れる分、痛みが出てくる可能性も高くなるわよ?」
「鎮痛剤で抑えます」
「鎮痛剤の副作用で血圧や体温が下がるのもわかってるわよね?」
 さっき、嫌というほど考えた。でも――。
「ここで耐えておかないと、今後の高校生活に響くと思うんです。全国模試を落とすことはできない。でも、模試のあとなら一週間続けて休んだとしても期末考査まではまだ時間があります。七月頭までになら体調を立て直せるかもしれません」
「……なるほどね。二ヶ月間、どっちにしろつらい思いをするならどこにウェイトを置くか――そういうことね?」
 湊先生の目を見てコクリと頷く。
「そういうことなら考えなくもない。薬を増やすのは一週間後の開始で、痛み止めは――三段階に増やそう。三段階というよりは一段階で飲める薬を二種類に増やすわ。ひとつは胃の負担になりにくい軽めの薬。もうひとつは今飲んでいるもの。それで胃への負担が少しでも軽くなるといいけど……」
 正直、薬は減らしてもらえないかと思っていた。
 言ってみるものなのね……?
「……翠葉、そういうことは口にしなさい。いくら主治医とはいえ、翠葉の体が手に取るようにわかるわけじゃない。思うことがあれば口にすればいい。そしたら一緒に考える」
 そう言うと、湊先生は残り少ない点滴の滴下を速めた。
「医者的見地からすれば家で休ませたいというのが本音だし、薬も飲ませておきたい。けど、それで翠葉の人生に歪みが生じるなら考えなくちゃいけない。一度リタイヤしちゃうと社会復帰が難しい――それは現場で働いたことがある医者なら誰もが知ってる。だから、自分がどうしたいのかは口にしていい」
「……はい」
「薬は秋斗に渡しておく」
 言うと、す、と立ち上がり点滴の針を抜き始めた。
「もう少し寝てなさい。秋斗もまだ仕事が残ってるみたいだし。秋斗が迎えに来るまで寝てるのね」
 先生は私に視線を戻すと、
「無理に体を起こしてる必要もないわ。寝てたらきっと運んでくれるでしょう?」
「……それは恥かしいです」
「いいじゃない、眠れる森の乙女みたいで」
 くつくつと笑いながら先生は仮眠室を出ていった。

「翠葉ちゃん、帰れる?」
「はい。今、何時でしょう?」
「七時過ぎかな」
 秋斗さんは側まで来ると体を起こすのを手伝ってくれた。
 まずは一段階目、上体を起こすだけ。
 ――頭がくらくらする。
 その状態に少し慣れてベッドから足を下ろす。
 あとは立つだけ――。
 ゆっくりと立ち上がる。でも、視界をキープすることはできなかった。
 どんなに段階を踏んでもだめじゃない……。
 情けなくて悔しくて目に涙が溜まる。
 でも、絶対に泣かない――。
 眩暈と涙が引くのを待っていると、すっぽりと秋斗さんの胸に抱きこまれた。
「ゆっくりでいい……。ゆっくりいこう」
 コクリと頷く。それが精一杯。
 今声を出したら震えた声しか出てきそうにないし、何か口にしようものなら真先に泣き言をもらしてしまいそう。
 少しすると、「落ち着いた?」と声をかけられた。
 それは眩暈のことを問われたのか。それとも、泣きそうだったのを悟られたのかはわからない。
 声が掠れないように最善の注意を払って、今できる限りの笑顔を添えて顔を上げる。「大丈夫です」と一言伝えるために。
 声は震えることも掠れることもなかった。でも、秋斗さんの目がかわいそうな子を見るような目で、ちょっと嫌だった。
 そんな目で見ないで。私をかわいそうな子にしないで――。
「じゃ、行こうか」
 その言葉に、「はい」と少し硬い声で答えた。
 私、そんなにかわいそうじゃない。そんなに弱くない。
 必死に自分を奮い立たせる。

 図書室を出る際には生徒会メンバーに声をかけられた。けど、あまり上手に答えられた気はしなかった。
 こんな状態の私を見たのだから、生徒会への打診も取り下げられるだろう。
 そういうことは早くに判断してもらったほうがいい。
 迷惑がかかるその前に回避することができるのなら、そのほうが私の気持ちも幾分か楽だ。
 必要とされて、何かの拍子に要らないものになるよりそのほうがいい。傷つかないで済む……。
 心を強く持とう、家に帰るまではがんばろう――。
 どれだけそう思っていても、テラスへ出て一階へと続く階段を見ると挫けそうになる。
 体調が悪いとこうも景色が違って見えるものなのか。
 階段がいつもよりも長く、傾斜が急に感じた。
 左に手すり、右手に秋斗さんの手を借りてゆっくりと下りた。
 部活が終わる時間と重なったこともあり、人の視線を感じる。
 私たちが下りる階段は部室棟へとつながる階段だから余計に……。
 せめてもの救いは、階段の幅が広いこと。
 人が五人並んでも歩けるため、どれだけゆっくり下りていようと人の邪魔になることはない。
 少しでも早く下りようと焦ろうものなら、それを引き止めるかのように右手に力をこめられた。
 駐車場に着き助手席のシートに座ると、秋斗さんの手ですぐにシートが倒された。
「この時間は少し混むかもしれないから寝てて?」
 秋斗さんが運転席に乗り込みエンジンをかけると、カーステから「Close To You」が流れてきた。この曲独特のゆったりとしたリズムが心地よく感じる。
 横になっているというのに車の振動をほとんど感じない。
 静かに停まっては緩やかに走り出す。それを何度も感じていると、サイドブレーキを引く音がした。
 自宅に着くには早すぎる。
 目を開けて秋斗さんを見ると、「ちょっと待っててね」と車から降りた。
 横になっている状態で得られる視界からは、そこがどこなのかはわかりかねる。
 ただ、白熱灯ぽいオレンジ色の光が届くことから、もしかしたらお店の前なのかもしれない。
 コンビニなら蛍光灯……?
 そんなことを考えていると、五分と経たないうちに秋斗さんが戻ってきた。
 運転席側の後部座席が開き、目の前に置かれた箱はアンダンテのケーキボックスだった。
「アンダンテの、前……?」
「そう」
 秋斗さんはにこりと笑う。
 今度はかわいそうな子を見る目じゃなかった。
 さっきの顔は蒼兄と似ている……。
 心配って文字が顔に貼り付いていて、どこか哀れまれている気になるから少し嫌……。
 そんな顔をさせているのは自分なのだけど、でも嫌なの。
 だって、好きな人には笑っていてほしい。
 ――あれ……? それはどういう意味で?
 どことなく蒼兄と似ているから……?
 運転席に戻ってシートベルトを締める秋斗さんに顔を覗き込まれ、
「ご飯が食べれなくても苺タルトならがんばれるんでしょ?」
 ちょっと意地悪な笑顔。
 けれども最近は見慣れつつあって……なのに、どうして?
 頬の、熱の持ち方がいつもと違いすぎた。
 咄嗟に秋斗さんから顔を逸らす。と、
「……どうかした?」
 不思議そうで、ほんの少し心配の色を含む声で訊かれる。
「いえ――どうも、しないです」
「……そう?」
 そのあとは追求されることなくほっとした。
 蒼兄……恋はするものじゃなくて気づいたら落ちているって――こういうことを言うの?
 これは恋……? これが、恋……?
 "恋"と"好きな人"。
 ふたつのキーワードが頭でひとつになった瞬間、心臓がけたたましく鳴りだした。思わず胸を押さえてしまうほどに。
「翠葉ちゃん、痛みが出てたりする?」
 エンジンをかけた状態で訊かれる。
「違っ――痛みとか、そういうのじゃなくて……あの、大丈夫です」
「……薬は早めに飲んだほうがいいんじゃない?」
 本気で心配されているのがわかるから、顔を背けてる場合ではなかった。
 ドアの方へ向けていた体をほんの少し運転席へ向ける。
「本当に違うので……大丈夫です」
「……わかった。あと十五分くらいで家に着くから」
 秋斗さんは再び車を発進させた。