お昼を過ぎると珍しい客が訪れた。
秋斗が私の仕事場に来るのは珍しい。非常に――。
このえらく顔のいいもぐら男は通常図書棟の仕事部屋から出てくることはない。
「お願いがあるんだけど」
「何よ、秋斗がここに来るなんて。明日雨でも降るんじゃないの?」
秋斗はくつくつと苦笑を浮かべる。
「さすがにさ、お願いごとするのに電話やメールはよろしくないかと思いまして」
「そのお願いってなんなの?」
「HIVの検査したいんだ」
「は?」
今、なんて言った? HIVの検査って言わなかった?
「だから、湊ちゃんに俺のHIVの検査をお願いしたいんだよね」
「…………かまわないけど、そういう恐れがあるってことなの?」
「全くもってそのつもりはないけれど」
にこにこといつもと変わらぬ笑顔でお願いしてくることでもなければ、そうそうお願いされることでもない。
確かに、この男は何年もの間不特定多数の女と肉体関係を持ってきた。
きっと一度きりの関係だってあるに違いない。
けれども、今まで妊娠騒ぎを起こしたこともなければ、そんなヘマをするとも思えない。
「じゃ、採血するから腕出して」
「はい」
袖をまくり、腕を出す。
とくに何か変な兆候も見られなければ具合が悪いようにも見えない。
まじまじと見ていると、
「何? そんなおかしいこと?」
「いや、おかしくはないけど……。強いて言うなら奇妙――かしらね」
「理由が知りたいってこと?」
「それ、ぜひとも聞きたいわ」
水面下のやり取りなど面倒なことはしたくない。
「俺ね、翠葉ちゃんと付き合うことにしたから」
……は?
――ちょっと待て、少し落ち着け私……。
翠葉ってあの翠葉よね? 秋斗いくつだっけ?
楓と同じなんだから二十五よ、二十五。翠葉は来月で十七になるんじゃなかったかしら?
秋斗だって夏には二十六になる。
何をどうしたって淫交罪適用じゃないの……。
「って言ってもお試し期間なんだけどねー」
緩んだ頬をつねりたい衝動に駆られる。
「ちょっと秋斗……。翠葉はあんたが今まで相手してきた女たちとは違うわよ? そのうえお試しってなによ。いくら秋斗でも翠葉で遊んだら怒るわよ!?」
翠葉は体が弱い。精神面で不安定な要素も多い。でも、素直でいい子だ。
普段蒼樹のことをシスコンシスコン言ってはいるものの、蒼樹があそこまで溺愛するのも頷けるほどに。
そんな子で遊ぶほどにこいつは廃れたか?
「湊ちゃん、それ結構ひどい……。逆だよ、逆。翠葉ちゃんが俺をお試しする期間ってこと」
ますますもって意味がわからない。
この秋斗がそんな付き合い方をするとは思えない。
欲しいものはなんでも手に入れようとするが、どうでもいいものには一切関わろうとしない。
「できればお嫁さんになってほしいんだよね」
女が放っておかないような甘い笑顔で口にする。
「秋斗……いくらお見合い話がわんさか来るからって、見合い避けに翠葉を使うのはどうかと思うけど?」
確かに、翠葉は化粧でもすればいくらかは年をごまかすことができるだろう。
でも、違う。そういう問題じゃない。
藤宮のごたごたに巻き込むなんてもってのほかだ。
「湊ちゃん、そうじゃないから……。俺ね、ちょっと本気っぽいんだよね」
採血の終わった腕を親指で押さえながら、「困ったことに」といった顔を見せた。
「は……?」
「くっ、頭の切れる湊ちゃんが今日はマヌケな反応ばかりだね」
誰のせいだ、誰のっ。
「本当はさ、お試し期間なんて言わずに付き合っちゃいたいんだけど、あの子、初恋もまだっていうあり得ないくらい純粋培養なお嬢さんでね。だから、自分と恋愛してみないか、って持ちかけた。まだ返事はもらってないけど、もちろんOKしてもらうつもり」
なんだ、まだ付き合っていないというか、返事すらもらってないのか。
少しほっとしたけれど、OKをもらう気でいるところが秋斗だろう……。
「で、なんでコレなのよ」
「婚約するまでは手ぇ出すつもりはないけれど、身の潔白っていうの? きちんとしておこうかと思って。別に誰に言うでもないんだけど……一応ね」
言って笑った。
秋斗なりに翠葉を大切にしたいから、ってこと……?
「それは、かなり本気だと受け取っていいのかしら?」
「それはもう……。だって、もうひとつの携帯は昨日早々に解約してきちゃったし」
もうひとつの携帯とは、女遊び専用回線というふざけた携帯のことだろう。
その中には女の名前と電話番号、アドレスしか入っていないという本当にふざけた携帯だ。
さらには、そういう女どもに自分の素性は一切明かさずに付き合ってきたというのだから、策士と言わずしてなんと言おうか。
とりあえず、血縁者に対して"詐欺師"という言葉は使いたくない……。
ま、秋斗のことだから、そのあたりはうまく立ち回っているのだろうし、変な女は引っ掛けていないに違いない。
「翠葉が傷つくようなことだけはするんじゃないわよ」
「心得てます」
あくまでもにこにこと、そしてどこか嬉しそうに答える。
「あのさ、ひとつ訊いてもいいかな?」
「何よ……言っておくけど手を出したら立派な淫行罪よ?」
「だから……婚約するまでは我慢するってば。違くて、司のこと。あいつ、お見合いした?」
「あぁ、楓の尻拭いの件ね」
私には弟がふたりいる。ひとりはこの学園に通う高等部二年の司。そして、もうひとりは藤宮病院で麻酔科医をしている楓。
現在の藤宮において、見合い話が来るのは秋斗と楓に集中している。
秋斗がにべもなく断るのに対し、楓はやんわりと断る。
もともとが物静かで温和な人間なのだ。
ただ、物腰穏やかな人間が流されやすいかというとそうでもなく……。
女のほうは押せば落ちると思うようだが、そんなことはない。
実際にはやんわりと断り、相手に身を引かせるのが楓のやり方。
意外とそつなく切り抜けてきていると思っていた。先日までは――。
あれは相手が悪かった。病院の大手取引先、製薬会社の社長令嬢――柏木あやめ。
どうやら見合い話が出た途端に婚約者面を始め、病院にまで入り浸りだしたという。
最初こそいつものように対応していたようだが、それでも目に余る奇行の数々だったのか、楓の堪忍袋の緒が切れた。
これでもか、というほどに相手の愚行を並べたて、相手両親の顔に泥を塗ることを忘れずにに破談にしてきたらしい。
自満の娘に対してそんな仕打ちをされ、さらには自分たちにまで恥をかかされたともなれば黙ってはいまい。
その尻拭いをもうひとりの弟、司がやることになってしまったのだ。
その用件とは、高校一年生の娘の家庭教師とのことだが、楓と長女は諦めて、あわよくば次男の司と次女を婚約指せようという魂胆だろう。
バカバカらしくてそれ以上の話を聞く気にもならなかった。
もうひとりの司という弟は、度を越して女嫌いときたものだ。
別にそっちの気があるわけではない。
ただ、藤宮の名前に集ってくる女どもには容赦のよの字もない。
その弟が、
「あの兄さんが切れるって相当だと思う。今回だけは後始末してもいい」
と、口にした。
そうは言ったが、あれは婚約などする気はさらさらないだろう。
表面上の約束は、「夏休み中の家庭教師」であり、それ以上でもそれ以下でもない。
だから、それさえ終われば確約上はことが済んだことになる。
それでいいならそれだけはやる、という意味だ。
きっと、私そっくりの顔できれいに笑顔を作り、
「夏休みの家庭教師は勤めましたから」
とでも言って、サラリとかわしてくるつもりだろう。
われながら良くできた弟であり、自分の動かし方を心得ていると思う。
相手も必死になれば、夏休み中にいかなる手を使ってでも既成事実にこじつけようとしてくるだろう。が、そんな手に司が引っかかるとは到底思えない。
だから黙認している。
「話的にはそういうことよ」
口を挟むことなく聞いていた秋斗は、
「なるほどねぇ……」
と、零した。
「こんなこと、私から聞かずとも秋斗の情報網のどっかに引っかかってるんじゃないの?」
「いやいや、湊ちゃんから得る情報に比べたら拙いものだよ」
と、含みのある笑みを浮かべた。
「まぁ、司ならうまくやるんじゃない? ……ただ、その間に俺は翠葉ちゃんをいただくけどね」
……そういうことか。
弟、司はたぶん翠葉のことを意識しているだろう。もっと言うなら、好きなんじゃないかと思う。
あの弟が自ら声をかけた女子はあとにも先にも翠葉しかいない。
それがどういうことなのか――。
少し考えればわかること。
「秋斗、あんた何九つも下の司に本気になってるのよ……」
そう思うとおかしい。
今、秋斗が一番気が抜けない相手、それが司なのだ。
「そうなんだよねぇ……。俺もできればふたりにうまくいってほしいと思ってたはずなんだけど……。どうしてこうなっちゃんたんだろう?」
首を傾げながら話し続ける。
「でもさ、人に譲りたくないもの、絶対に手に入れたいもの。初めて見つけちゃったんだよね」
まるで宝物を見つけた少年みたいな目で口にした。
私だって弟はかわいい。けれど、何事にも執着心を見せなかった従弟が、こんなにも嬉しそうに笑っているのを見ると心が揺れる。
早い話、毒気を抜かれてしまったのだ。
司……。あんたおちおちしてると秋斗に全部掻っ攫われるわよ?
そうは思うがとくに耳打ちするつもりは毛頭ない。
"欲しいものは自分の力で手に入れろ"。
それは藤宮の家訓のようなもの。
藤宮という家に生まれると、たいていのものが最初から手の内にある。
だからこそ、自分の手にないものを欲しいと思うならば、自分の持ち得るすべてのものを駆使してでも手に入れよ、という教え。
これは意外と的を射ていて、私の知る限り、みんなそのようにして生きてきている。
十八歳を過ぎればうるさいほどに縁談がやってくる。それをいかにうまく断り最良の伴侶を得るか――。
前者においては面倒くさいことこのうえないが、さほど大変なことでもない。
藤宮で育てばそのくらいの処世術は必然と備わるからだ。
が、後者は藤宮の血族ではかなり骨の折れることのように思える。
うちの一族はありとあらゆるものに対して執着心が薄い。きっと、物心がつく前から望むものが手に入る環境に育つからだろう。ゆえに、自己愛が強く、相手に愛情を与えるという行為自体にあまり興味を示さない。
そんな人間たちの執着は仕事へと向かう。
その代表に伯父の紫と栞の兄、次期会長の静さんがあがる。そして、楓や司もその傾向が強い。目の前にいる秋斗も例にもれず――否、例にもれずだった、というべきか……。
翠葉、厄介なのに気に入られちゃったわね?
今まで執着心の欠片もなかった男たちが、一度見つけた宝をそうそう逃しはしないだろう。
しかも、秋斗ひとりでは済みそうにない。
秋斗と司と――。
きっと自分の感情に気づいたが最後。
どんな手を使ってでも自分のものにしようとするのだろう。
少々気の毒だが、遊びではないことがわかっただけでもいいとする。
一言申し上げるとしたら――ご愁傷様、かしら?
翠葉の先日の知恵熱は秋斗が原因らしいし……。
これから先が思いやられるわね。
秋斗が私の仕事場に来るのは珍しい。非常に――。
このえらく顔のいいもぐら男は通常図書棟の仕事部屋から出てくることはない。
「お願いがあるんだけど」
「何よ、秋斗がここに来るなんて。明日雨でも降るんじゃないの?」
秋斗はくつくつと苦笑を浮かべる。
「さすがにさ、お願いごとするのに電話やメールはよろしくないかと思いまして」
「そのお願いってなんなの?」
「HIVの検査したいんだ」
「は?」
今、なんて言った? HIVの検査って言わなかった?
「だから、湊ちゃんに俺のHIVの検査をお願いしたいんだよね」
「…………かまわないけど、そういう恐れがあるってことなの?」
「全くもってそのつもりはないけれど」
にこにこといつもと変わらぬ笑顔でお願いしてくることでもなければ、そうそうお願いされることでもない。
確かに、この男は何年もの間不特定多数の女と肉体関係を持ってきた。
きっと一度きりの関係だってあるに違いない。
けれども、今まで妊娠騒ぎを起こしたこともなければ、そんなヘマをするとも思えない。
「じゃ、採血するから腕出して」
「はい」
袖をまくり、腕を出す。
とくに何か変な兆候も見られなければ具合が悪いようにも見えない。
まじまじと見ていると、
「何? そんなおかしいこと?」
「いや、おかしくはないけど……。強いて言うなら奇妙――かしらね」
「理由が知りたいってこと?」
「それ、ぜひとも聞きたいわ」
水面下のやり取りなど面倒なことはしたくない。
「俺ね、翠葉ちゃんと付き合うことにしたから」
……は?
――ちょっと待て、少し落ち着け私……。
翠葉ってあの翠葉よね? 秋斗いくつだっけ?
楓と同じなんだから二十五よ、二十五。翠葉は来月で十七になるんじゃなかったかしら?
秋斗だって夏には二十六になる。
何をどうしたって淫交罪適用じゃないの……。
「って言ってもお試し期間なんだけどねー」
緩んだ頬をつねりたい衝動に駆られる。
「ちょっと秋斗……。翠葉はあんたが今まで相手してきた女たちとは違うわよ? そのうえお試しってなによ。いくら秋斗でも翠葉で遊んだら怒るわよ!?」
翠葉は体が弱い。精神面で不安定な要素も多い。でも、素直でいい子だ。
普段蒼樹のことをシスコンシスコン言ってはいるものの、蒼樹があそこまで溺愛するのも頷けるほどに。
そんな子で遊ぶほどにこいつは廃れたか?
「湊ちゃん、それ結構ひどい……。逆だよ、逆。翠葉ちゃんが俺をお試しする期間ってこと」
ますますもって意味がわからない。
この秋斗がそんな付き合い方をするとは思えない。
欲しいものはなんでも手に入れようとするが、どうでもいいものには一切関わろうとしない。
「できればお嫁さんになってほしいんだよね」
女が放っておかないような甘い笑顔で口にする。
「秋斗……いくらお見合い話がわんさか来るからって、見合い避けに翠葉を使うのはどうかと思うけど?」
確かに、翠葉は化粧でもすればいくらかは年をごまかすことができるだろう。
でも、違う。そういう問題じゃない。
藤宮のごたごたに巻き込むなんてもってのほかだ。
「湊ちゃん、そうじゃないから……。俺ね、ちょっと本気っぽいんだよね」
採血の終わった腕を親指で押さえながら、「困ったことに」といった顔を見せた。
「は……?」
「くっ、頭の切れる湊ちゃんが今日はマヌケな反応ばかりだね」
誰のせいだ、誰のっ。
「本当はさ、お試し期間なんて言わずに付き合っちゃいたいんだけど、あの子、初恋もまだっていうあり得ないくらい純粋培養なお嬢さんでね。だから、自分と恋愛してみないか、って持ちかけた。まだ返事はもらってないけど、もちろんOKしてもらうつもり」
なんだ、まだ付き合っていないというか、返事すらもらってないのか。
少しほっとしたけれど、OKをもらう気でいるところが秋斗だろう……。
「で、なんでコレなのよ」
「婚約するまでは手ぇ出すつもりはないけれど、身の潔白っていうの? きちんとしておこうかと思って。別に誰に言うでもないんだけど……一応ね」
言って笑った。
秋斗なりに翠葉を大切にしたいから、ってこと……?
「それは、かなり本気だと受け取っていいのかしら?」
「それはもう……。だって、もうひとつの携帯は昨日早々に解約してきちゃったし」
もうひとつの携帯とは、女遊び専用回線というふざけた携帯のことだろう。
その中には女の名前と電話番号、アドレスしか入っていないという本当にふざけた携帯だ。
さらには、そういう女どもに自分の素性は一切明かさずに付き合ってきたというのだから、策士と言わずしてなんと言おうか。
とりあえず、血縁者に対して"詐欺師"という言葉は使いたくない……。
ま、秋斗のことだから、そのあたりはうまく立ち回っているのだろうし、変な女は引っ掛けていないに違いない。
「翠葉が傷つくようなことだけはするんじゃないわよ」
「心得てます」
あくまでもにこにこと、そしてどこか嬉しそうに答える。
「あのさ、ひとつ訊いてもいいかな?」
「何よ……言っておくけど手を出したら立派な淫行罪よ?」
「だから……婚約するまでは我慢するってば。違くて、司のこと。あいつ、お見合いした?」
「あぁ、楓の尻拭いの件ね」
私には弟がふたりいる。ひとりはこの学園に通う高等部二年の司。そして、もうひとりは藤宮病院で麻酔科医をしている楓。
現在の藤宮において、見合い話が来るのは秋斗と楓に集中している。
秋斗がにべもなく断るのに対し、楓はやんわりと断る。
もともとが物静かで温和な人間なのだ。
ただ、物腰穏やかな人間が流されやすいかというとそうでもなく……。
女のほうは押せば落ちると思うようだが、そんなことはない。
実際にはやんわりと断り、相手に身を引かせるのが楓のやり方。
意外とそつなく切り抜けてきていると思っていた。先日までは――。
あれは相手が悪かった。病院の大手取引先、製薬会社の社長令嬢――柏木あやめ。
どうやら見合い話が出た途端に婚約者面を始め、病院にまで入り浸りだしたという。
最初こそいつものように対応していたようだが、それでも目に余る奇行の数々だったのか、楓の堪忍袋の緒が切れた。
これでもか、というほどに相手の愚行を並べたて、相手両親の顔に泥を塗ることを忘れずにに破談にしてきたらしい。
自満の娘に対してそんな仕打ちをされ、さらには自分たちにまで恥をかかされたともなれば黙ってはいまい。
その尻拭いをもうひとりの弟、司がやることになってしまったのだ。
その用件とは、高校一年生の娘の家庭教師とのことだが、楓と長女は諦めて、あわよくば次男の司と次女を婚約指せようという魂胆だろう。
バカバカらしくてそれ以上の話を聞く気にもならなかった。
もうひとりの司という弟は、度を越して女嫌いときたものだ。
別にそっちの気があるわけではない。
ただ、藤宮の名前に集ってくる女どもには容赦のよの字もない。
その弟が、
「あの兄さんが切れるって相当だと思う。今回だけは後始末してもいい」
と、口にした。
そうは言ったが、あれは婚約などする気はさらさらないだろう。
表面上の約束は、「夏休み中の家庭教師」であり、それ以上でもそれ以下でもない。
だから、それさえ終われば確約上はことが済んだことになる。
それでいいならそれだけはやる、という意味だ。
きっと、私そっくりの顔できれいに笑顔を作り、
「夏休みの家庭教師は勤めましたから」
とでも言って、サラリとかわしてくるつもりだろう。
われながら良くできた弟であり、自分の動かし方を心得ていると思う。
相手も必死になれば、夏休み中にいかなる手を使ってでも既成事実にこじつけようとしてくるだろう。が、そんな手に司が引っかかるとは到底思えない。
だから黙認している。
「話的にはそういうことよ」
口を挟むことなく聞いていた秋斗は、
「なるほどねぇ……」
と、零した。
「こんなこと、私から聞かずとも秋斗の情報網のどっかに引っかかってるんじゃないの?」
「いやいや、湊ちゃんから得る情報に比べたら拙いものだよ」
と、含みのある笑みを浮かべた。
「まぁ、司ならうまくやるんじゃない? ……ただ、その間に俺は翠葉ちゃんをいただくけどね」
……そういうことか。
弟、司はたぶん翠葉のことを意識しているだろう。もっと言うなら、好きなんじゃないかと思う。
あの弟が自ら声をかけた女子はあとにも先にも翠葉しかいない。
それがどういうことなのか――。
少し考えればわかること。
「秋斗、あんた何九つも下の司に本気になってるのよ……」
そう思うとおかしい。
今、秋斗が一番気が抜けない相手、それが司なのだ。
「そうなんだよねぇ……。俺もできればふたりにうまくいってほしいと思ってたはずなんだけど……。どうしてこうなっちゃんたんだろう?」
首を傾げながら話し続ける。
「でもさ、人に譲りたくないもの、絶対に手に入れたいもの。初めて見つけちゃったんだよね」
まるで宝物を見つけた少年みたいな目で口にした。
私だって弟はかわいい。けれど、何事にも執着心を見せなかった従弟が、こんなにも嬉しそうに笑っているのを見ると心が揺れる。
早い話、毒気を抜かれてしまったのだ。
司……。あんたおちおちしてると秋斗に全部掻っ攫われるわよ?
そうは思うがとくに耳打ちするつもりは毛頭ない。
"欲しいものは自分の力で手に入れろ"。
それは藤宮の家訓のようなもの。
藤宮という家に生まれると、たいていのものが最初から手の内にある。
だからこそ、自分の手にないものを欲しいと思うならば、自分の持ち得るすべてのものを駆使してでも手に入れよ、という教え。
これは意外と的を射ていて、私の知る限り、みんなそのようにして生きてきている。
十八歳を過ぎればうるさいほどに縁談がやってくる。それをいかにうまく断り最良の伴侶を得るか――。
前者においては面倒くさいことこのうえないが、さほど大変なことでもない。
藤宮で育てばそのくらいの処世術は必然と備わるからだ。
が、後者は藤宮の血族ではかなり骨の折れることのように思える。
うちの一族はありとあらゆるものに対して執着心が薄い。きっと、物心がつく前から望むものが手に入る環境に育つからだろう。ゆえに、自己愛が強く、相手に愛情を与えるという行為自体にあまり興味を示さない。
そんな人間たちの執着は仕事へと向かう。
その代表に伯父の紫と栞の兄、次期会長の静さんがあがる。そして、楓や司もその傾向が強い。目の前にいる秋斗も例にもれず――否、例にもれずだった、というべきか……。
翠葉、厄介なのに気に入られちゃったわね?
今まで執着心の欠片もなかった男たちが、一度見つけた宝をそうそう逃しはしないだろう。
しかも、秋斗ひとりでは済みそうにない。
秋斗と司と――。
きっと自分の感情に気づいたが最後。
どんな手を使ってでも自分のものにしようとするのだろう。
少々気の毒だが、遊びではないことがわかっただけでもいいとする。
一言申し上げるとしたら――ご愁傷様、かしら?
翠葉の先日の知恵熱は秋斗が原因らしいし……。
これから先が思いやられるわね。