保健室をノックするとすぐに返事があった。
「失礼します」
 湊先生は飲み物を飲みながらパソコンを見ていた。
「あら、翠葉じゃない。テスト終わったの? っていうか、具合でも悪いの?」
 眉をひそめられ、
「テストは終わりました。でも、具合悪いのは私じゃなくて――」
 先生は不思議そうな顔で私を見ていた。
「あの、秋斗さん、すごい熱だと思うんです。仮眠室で横になってて……」
「またか……」
「え……?」
「あのバカ、仕事詰め込みすぎなのよ。わかったわかった、そっちは私が行く。翠葉は今すぐそこの流しでうがいと手を洗いなさい」
「はい……」
 先生は点滴や飲み薬、体温計などの用意を始める。
「翠葉、あんた何泣いてんのよ」
「え……?」
 頬に手を伸ばすと、確かに濡れていた。言われてみれば、視界が少しぼやけているかもしれない。でも――。
「どうして涙なんか……」
「……秋斗に何か言われた?」
「……うつったら洒落にならないから出てくれって」
「で?」
「……言われてることはきっと間違ってないけど、でも――悲しかったです」
 自分の感情を認めたら涙が止まらなくなった。
 先生は私の近くまでくると、抱きこむようにして背中をさすってくれた。
「そうね。秋斗は正しい。でも、いつもとは違う口調だったんじゃない? それに翠葉は驚いた。……秋斗はねぇ、熱に弱いのよ。もともと頑丈なつくりしてるから、普段どんな無理しても意外と平気なんだけど、時々こうやって熱を出すの。そんなときはたいてい余裕がないとき。だから、翠葉が悪かったわけじゃない」
「……でも、私が私じゃなかったら、そしたら少しくらいは看病できたかもしれないのに……」
「そんなに心配だった?」
 コクリと頷く。
「そっかそっか……。大丈夫よ、点滴打って薬飲ませれば明日にはケロっとしてるから。だから、翠葉はうがいを済ませなさい」
「はい」
 もう一度手を石鹸で洗い、アズレンを溶かした水でうがいをした。
 確かに、私はウィルスに対する自己免疫力も高いほうではない。風邪はもらいやすいし、風邪をひくと治るまでも時間がかかる。
 ゆえに、普段人ごみには入らないように気をつけているし、どうしても入らなくちゃいけないときにはマスクをつける。
 私の体質のことを粗方知っている秋斗さんにはさっきのような対応をされても仕方がない。でも、せめて何かひとつでも自分にできることがあったら良かったのに……。
 私はお医者さんでも看護師さんでもないから大したことはできない。それでも、側にいることくらいできたら良かったのに……。
 具合が悪いとき、ひとりでいるのは心細くなる。そういうときに蒼兄やお母さん、栞さんが側にいてくれるとほっとする。
 でも、私はそんなこともできないんだ……。
 役立たず――本当に私は役立たずだ……。
「ほら、深く考えずに栞のところに帰りなさい」
 言われて、私は保健室をあとにした。

 栞さんの待つ家に帰ると、玄関で出迎えられて早々「あら、ひどい顔」と言われた。
 言葉どおり、ひどい顔をしていたのだろう。
「テストのでき、そんなに悪かったの?」
「いえ、そんなには……。栞さん、夕飯まで寝てもいい?」
「え? いいけど……」
「あ、その前にお風呂に入っちゃいます」
 がんばって笑顔を作ろうとした。そしたら、栞さんに左の頬をつままれた。
「翠葉ちゃん、笑いたくないときは笑わなくていいの」
 そんなふうに言われて、また涙が目に滲む。
「泣いたらその分水分摂らせるわよ?」
 かわいく睨まれ、
「お風呂上りに冷たいハーブティーを部屋に運んでおくわ」
 と、キッチンへと入っていった。
 聞いてほしいときには聞いてくれる。聞いてほしくないときには聞かないでくれる。
 いつもと変わらない。それが嬉しくて、また涙が出る。
 自分の涙腺の脆さに文句をつけたいと思いつつ、お風呂に入った。
 このマンションは、お風呂に入りたいときにボタンを押すと、五分と経たないうちに湯船にお湯が溜まる。そのため、お風呂に入るのに待ち時間は要しなかった。

 お風呂に浸かりながら、自分が人にできることを考える。
 ご飯を作る、お茶を淹れる、お菓子を作る――。
 何度考えても四つ目の項目は浮上しない。先が見えない。自分の将来が全く見えない――。
 私、高校を卒業してどうするんだろう? もし、その先の学校に進んだとして、その先はどうするんだろう?
 全然社会に貢献できる気がしない。社会に出ていける気がしない。
 私、何もできない。きっとどこへ行っても役に立てない気がする。
 私はこんなにも色んな人に助けられて生きているのに、私はそれを誰かに返すことはできないのかな。もらうだけ、なのかな――。

 お風呂から上がると、ローテーブルの上に冷たいハーブティーが置かれていた。
「夕飯には起こすから、少し休みなさい」
 そう書かれたメモと一緒に。
 体力的に、というよりは気力が残っていなくて、髪の毛も乾かさずにベッドへ横になった。