時刻は18時。
シュシュでまとめていた髪の毛をおろして靴を履き替える。
通勤用のカバンを手にしたところで後ろから声をかけられた。
「伊奈ちゃん」
はい、と反射的に返事をして、振り向くと見慣れた男。
「帰っちゃうの? 」
今日のノルマ分の仕事は片付けた。それに定時は1時間も前
だから、帰っちゃうの? に対する返答はもちろんイエスだ。
なのにその人は返事の前に、にこりとさらりと
「キスしてくれてないけど」
(何を言っているのかこのお方は)
まさか、本気で言っていたのかこの人は
前日のメールのやり取りを思い出す。
【伊奈ちゃん~('∀`)チューしちゃダメ??】
【??? 紺さん?】
【ねぇ、ダメ?】
【酔ってるんですか?】
【ダメ?】
(ダメ? と聞かれれば、ダメなわけじゃないのだけれど)
「どうして、キスしないといけないんですか? 恋人でもないのに。ましてや上司と」
「したいから」
「そういうのは、好きな人としてください。」
「俺、伊奈ちゃんのこと好きだよ?」
「……」
昨日のメールとおんなじやり取り。
やっぱり夢じゃなかったのか。
こんな不毛なこと、夢であって欲しかった。
「だって、奥さんいるじゃないですか」