毬は懐かしい安倍邸へと着いたあたりで瞳を開けた。

「眠っておけば良かったのに」

 牛車の中で、毬の肩を抱いていた龍星が柔らかい声で言う。

「龍は帰って何するの?」

「少し仕事が残っている」

「じゃあ、私も手伝うわ」

 軽く申し出る毬に、龍星は諦めたようにため息をついた。

「無理のない程度で、頼むよ」

「うんっ」

 無邪気に頷くお姫様は、しかし大抵無理をするのだ。
 真剣に陰陽の力の扱い方を教えなければいけないときが迫っているのかもしれない、と、龍星は心のうちで算段する。

 それでも、出来れば愛しい人を自分が抱えるいざこざに巻き込みたくはない。

 しかし。
 もう、今更手放すことなど出来ないと気付いてしまったのだ。

 そんな龍星の心のうちを知ってか知らずか、髪を撫でられた毬は慣れた猫のように気持ちよさそうに瞳を細めていた。

 そうして、ふと想い出したかのように自分の唇を龍星の唇に押し当てた。何の前触れもなく。


「龍のことが、一番好き――」

 可愛らしく囁かれた言葉は、ほんの少しだけ甘く溶け切らずに、龍星の胸に棘のように突き刺さった。