ここを訪れる父は、ときおり娘を抱き上げることがあったが、母は決してその腕に、我が娘を抱き上げようとはしなかった。

短いその逢瀬の時すら、朱夏は父母に甘えることもできず、そんな彼らが屋敷を出ると、一人、部屋に篭り声を殺して泣いていた。

朱夏が涙を流して泣くのは、そのときだけだ。

そんな朱夏が、哀れで悲しくて、そして何より愛しくて、渡辺は自分の生涯をこの小さな姫に捧げると、そう決めた。

長くはないと言われた生を、一日でも永らえされるために。
生あるその時が、少しでも楽しいものであるように。

渡辺は、この生涯を捧げると。
そう決めていた。

おそらく、この屋敷で朱夏と過ごせして者は皆、そんな決意を心に秘めているはずだと、渡辺は思っている。

朱夏を起こさないように静かに立ち上がった渡辺は、テラスに繋がる窓の前に立った。

「鴉、ねえ」

このあたりに、鴉がいただろうかと、渡辺は考えた。

おそらく、夢を見たのだろう。
そう思ってはいるのだが、なんとなく、渡辺は気に掛かった。

夢であったとしても、朱夏があんなふうに覚えていることは、珍しかった。
何か夢を見ることがあっても、目が覚めたときには、そのほとんどを、朱夏は忘れている。
よほど強烈な夢だったのだろうかと思うと、だからこそ、それが妙に気に掛かった。