現実に引き戻された深閑な一人の部屋。あの日のミヤコの店での事は記憶が途中で曖昧になっていた。調子に乗って初めて口にするラム酒を呑み過ぎた様だ。だが最終電車に間に合って帰宅し、着替えてベッドで寝ていた事だけは自分でも関心している。あれから一週間後の土曜日の15時過ぎ、何もする気がしない。習慣で朝7時に起きたモノののベッドから出ると言えば、トイレに行く時だけだ。そんな日を気付けば失職してからと言うもの2ヶ月以上も続けている。そしてバーの女主人でありサックス奏者でもある都(ミヤコ)の事ばかり考えて、曖昧な記憶の中から明確な記憶、彼女との会話だけを俺の脳から抽出する事を楽しんでいた。そして何時の間にかうたた寝をしてしまった。

夢の中、あの日バーで見た彼女が長い髪を結う姿が見え、その光景が何度もスロー再生される。その美貌は絶景を見て何も形容する言葉が見つからず溜め息しかこぼせない。恐らくそんな感じだ。

その時、そんな絶景が激しい頭痛によってもろくも崩された。眼が覚めて幼い頃の母親への憎悪が蘇り、その痛みにのた打ち回る。

白久磨町に足を踏み入れて一週間、この激しい頭痛と共に母親への憎悪が頻繁に俺を苦しめる。やはりあの街へ行くべきではなかったんだろうか?しかし、俺が棄てていたあの街にミヤコと言う宝石を見つけた事で希望が見えるかも知れない。ただ悪戯に生きる屍の如く時間を浮遊してるだけの日々から抜け出せるかも知れない。だが見えない何かに運命をもて遊ばれている解せない腑に落ちない恐怖に似たボンヤリした不安もある。

おもむろに俺は押し入れにしまい込んだサックスのケースを取り出した。アメリカ留学までして音楽を親に勉強させて貰えたミヤコ。彼女に嫉妬して比べる俺自身に憤りを感じるがもう一度吹いてみたい。そんな衝動に駆られた。過去を封印していたケースを開けるとそこにはメッキが剥がれ、所々錆びたサックスが在った。黄金色の学生時代の思い出が蘇る。あの日にもし帰れるならミヤコに頭を下げてサックスを習おう。

淀んだ部屋の空気を入れ換える為、カーテンと窓を開けた。あの日見た未だ看板無きバーの壁みたいな真っ青で高い空。昼下がりの近所の公園から子供の遊ぶ声が聞こえて来る。それらを感じて全部体内に吹き込むと清々しい気分へと変わった。

「よし!もう一度あの街へ行こう!」

初恋の相手との初デートの様にキメ込み、ケースを抱えて俺は部屋を後にした。