あんなに晴れていた空は今にも泣き出しそうな空へと変わる。それでもためらう事なく、俺はサックスケースを携えて急いで車に乗り込み、ミヤコに会いたい一心でアクセルを吹かせた。

ナビなんか無しで迷う事なく目的地へと辿り着ける自信はある。だのに俺の心は今の空みたいにどんより重い。妻との離婚、会社の倒産、妻との間に子供が出来なかった後悔。そして忘れていた母への憎悪…。そんな物憂げな記憶が頭ん中にアクセルを吹かす度に浮かぶ。「もうこんな絶望の呪縛から解放されたい。」そう思うと握り締めるハンドルの手は血の気が引いて真っ白だった。

そして一週間ぶりに青い建造物を見た。その周りに人集りが出来ている。「何の騒ぎだろ?」適当に車を停めて俺は徐々にその建物に近付き、ミヤコの姿を見つけた。俺に気付いたらしく彼女は大きく手を振る。それを見て俺は改めて今日彼女に再び会えた事が嬉しくて仕方なかった。

ミヤコ「あら、空人(そらと)さん!今日の事、覚えてくれてたの?」

今日の彼女は初めて会った制服姿の大人っぽさはなくジーンズに白いワンピース姿だった。その姿は初めて会った時に比べてやや幼く見える。そんな彼女は何だか妹の様に思えて二度目の対面した今はあの日の様な緊張感は無い。

俺「随分可愛いワンピースだね(笑)で、今日の事って?これは一体何の騒ぎ?」

ミヤコ「ありがとう。あれ?言って無かったかしら?正式に今日のこの日を店のオープン日にするの。それでねオープンライブイベントするのよ!」

俺「そうだったんだ!ところで名前覚えてくれてたんだね!有難う!」

明らかに彼女に作り笑顔で応えているのが自分でも分かった。嬉しそうに話すミヤコに対して俺はただただ弟子入り?を志願したい気持ちが先走り、正直、イベントの事なんてどうでも良かった。

ミヤコ「お客様の名前、誕生日、覚えるのも仕事の内ですから…。(笑)ねっ!今日に限りフード付きフリードリンクでお得な三千円よ!ゆっくり楽しんでね!」

更に営利的な言葉にムッとした。俺のこの苦悩なんて当たり前だが彼女は知る由もない。今日のイベントの事で恐らく彼女は頭が一杯なんだろう。そんな苛立ちをなだめるかの様に俺はそう自分に言い聞かせた。暫く黙って立ち尽くしていると、車の中に置いて置く事も出来たのに無意識に持って来てしまったサックスのケースに気付く。片手に握り締めるそれを興味深げに見つめ出す彼女。

ミヤコ「あら?あの時話してくれたアルトサックスね!今日吹いて貰えるのかしら?吹いて良いわよ(笑)」

俺「いや、今日はそんなつもりじゃ…。もう随分ブランクあるし、人前で吹ける身分でもないから…。」

ミヤコ「場数をこなさないと上手くならないわよ!(笑)」

少しその言葉にイラついたが何とかその表情を読み取られまいと苦笑する。しかし一体どうやって弟子入り志願の話しに持ち込めば良いのかそのタイミングが図れずにただ呆然と立ち尽くして居た。すると長身の恐らく190㎝はあろうかと思われる白人男性がミヤコを呼ぶ声が聞こえ、ミヤコは俺の手を引く。

ミヤコ「紹介するわ!彼、ポール。私のバンドのドラマーなの。こんなデカい図体してタコ焼き屋でもあるのよ(笑)それでね彼の焼くタコ焼きの味は本物!大阪で三年修行したらしいのよ!そしてこちらはソラトさん。」

彼女は背中を丸めて小さなたこ焼きを焼く長身のポールの真似をしてからかっている。ポールは苦笑しながら照れくさそうな様子だ。そんな光景を目の当たりにして俺は未だ彼女を何も知らないのに等しいのに彼女がポールの事を嬉しそうに話すお互いの関係に嫉妬した。そんな彼女がポールに俺を紹介するのは何だか複雑な心境だ。

ポール「初めまして、ソラト!うちのたこ焼き、メッチャ美味いでぇ〜!食べに来てやー!たこ焼きサイコー!」

缶ビールを片手に少し酔っ払ったテンションの高いポール。その姿はペンキの付いた白いつなぎを着て頭にタオルを巻いている。そんな彼が俺よりも高い目線で俺を見下ろし、大きな手で握手を求めて微笑んでいる。俺はそれにただ社交的に愛想笑いで応じるしかないのがいささか気分が悪かった。

ミヤコ「ほら見て!これ、ポールの作品!可愛いでしょ!」

店のドアの上に恐らく手作りであろうお世辞にも上手とは言えない木製の横長1メートル程の看板が掲げられている。

「BAR MIYAKO」

それを満足気に見上げるミヤコとポール。つられて俺も見上げる。

ミヤコ「未だ設備が整ってないけどきっと大きなライブハウスにするわ!それが死んだ父との約束でしたもの。」

俺「じゃ、今日は楽しませて貰うよ!」

さっき芽生えた俺の嫉妬心さえも消し去る程の嬉しそうな彼女の顔。それを見てさっきの自分自身の邪な気持ちを恥ずかしく思えた瞬間、何の戸惑いもなく今日のこの日を楽しみたいと思えた。

ミヤコ「頑張るわ!」

真っ赤な夕焼けがこの青いバーを包み込む。初めて此処へ来た光景と全く同じだ。だけど母親を想い出して涙した不安げで悲しい気分なんかじゃない。キラキラした眼で看板を見上げる彼女の姿を見てそんなあの日の自分がバカバカしく思えた。そんなキラキラした彼女をずっと見ていたい。そんな彼女を見るのが幸せだと感じたい。

三人がその看板を見上げるその眼はきっとこの白久磨町の明るい未来を見つめているに違いなかった。