だからこそ、何かをせねばと思ったのに。

帰り道。足場が安定しない、泥道。肩越しに顔を向ける彼。日音子は言葉を探して、口を開く。誠一郎は口角を吊り上げる。人差し指を唇に当てて、子供に秘密を与えようとする、悪い大人の艶笑で。



「どうしたの?」

日音子は、ひゅ、と喉を鳴らす。いつの間にか、誠一郎が眼前に立っていた。

「え、いや」

相も変わらず前髪に隠された双眼が、鋭く日音子を射止めている。彼女は酷く狼狽していた。その焦りを必死に隠して、彼を眼差す。

「顔色、」彼の人差し指が、日音子に向けられた。

「顔色悪いよ」

それだけ言うと、誠一郎は日音子に背中を向ける。その瞬間、彼女の胸の内をざらりとしたものが撫でた。背筋に冷たい物が走って、胃の中に酸っぱい何かを感じる。肩が重くなって、首に縄が巻き付く。何故か、何故だろうか。無性に悲しくなって、感情が波のように押し寄せた。

日音子は、彼の背中に咄嗟に言葉を投げかける。

「誠一郎くん、大丈夫だよ」

無意識といっても、過言ではなかった。

「だいじょうぶだから」

誠一郎は聞こえているのかいないのか、そのまま教室を後にする。日音子は物言わない静かな背中が消えた方向を、じっと見つめていた。