「いえ、め、滅相もございません」

猛獣の牙が、心臓に食い込む錯覚。鮹は怯えて、八本の足をうねうねと縮ませた。絡み付く粘着質な滑りを持つ足を見つめ、乙は鼻で笑うと再び歩き出した。そうして暫く長い廊下を歩いていくと、段々と景色は質素になる。その更に先を行き、廊下の再奥まで行き着くと、そこに障子が現れる。その障子の奥に居る者に声を掛けることなく、乙は唐突に障子を開いた。

中に居たのは、人間よりも巨大な亀である。甲羅は、藻が蔓延っている為に、まるで何千年も存在する岩のように彼をみせている。実際は、何千年よりも遥かに長く生きているのだが。

「じい、頼み事があるんじゃが」

「乙よ。そろそろ大人になりなさい。あの女中に、悪気はないのだから」

置物のような亀はその頭を擡げて、乙を見つめた。慈悲深い漆黒の目が、乙を包み込む。彼は世の中の全てを知っている、と乙は思っている。少なくとも乙の知りたいことを全て、彼は知っていた。

「だってあやつ、魚尾のことを悪う言うのじゃ」

「皆、御主のことを思ってのことです」