「自分より、優れた人はたくさんいて、自分の代役なんて何処にもいて、自分の得意とすることだって、さしてそんなでもない」

おとぎは影に向かって口を開いた。学校の帰り道の、夕焼けに染められたコンクリート。その上に、対峙するかの如く立つ影は、笑みを浮かべて、ゆらゆらと揺れる。その顔は、おとぎに酷似している。

「じゃあ死ねばいい死ねば楽だ、ほら、死んでしまえ。死んでしまえ」


心臓が、締め付けられた。畳み掛ける様にして、影は嘲笑を深めた。傾いた太陽が沈む寸前。沈下した太陽は二度と、戻らない。そんな下らない錯覚さえも、現実の味がした。


「だって、ほら、お前は誰にも必要とされない。お前は、自分に価値があるとでも勘違いしているようだが。いらないんだよ。いらないんだ。最初から、いらなかった、筈で」

赤錆びた未来は何処に落ちているのか。口を開いて、放った言葉は、何処に向かうのか。心臓が、きりきりと、鳴いた。


「強行手段か」

「意志は変わらないかもね。お前は、生きたいと思っているかも」

「でも、良いんじゃないかな。レジスタントだ。構わない。嫌われたって、構わない。フェアはファウル、ファウルはフェア。結果が分からなくてでも、フェアだと思ったから、走ったんだろう?」

「当て付けだろう」

「構わない。示したい。というか、使命感かな」

影が、言葉を発する。最早、影は一つである。どちらが影で、どちらがホンモノで、どちらが本心なのか。曖昧な境界線は水に溶けて消える。


「お前がさ、」と、影を指す。否、影が、かもしれないが。

「お前が消えてしまって、どれだけの人間が悲しむか。伝えなきゃなんないんだよ」

「結果は出ないかもよ?」


それでも、と。おとぎは、眼差す。

「伝えることが、大切なんだ。知って欲しいんだよ。結果なんてどうだっていい。ただのお節介かもしれないがな。もしかしたら」

「お前は結果を望んでいるかも」

「そうかもしれない。そうでないかもしれない。でも伝える、それだけだよ」

制服のスカートが、風に吹かれる。ローファーが黒い地面を踏む。白い靴下に、泥が少し跳ねていた。

「自分より、優れた人はたくさんいて、自分の代役なんて何処にもいて、自分の得意とすることだって、さしてそんなでもない。そうだね、そうだな。でも、それでも、自分を必要とする人は一人でもいる。それは母かもしれない、帰り道で餌を待つ猫かもしれない、コンビニの店員か、携帯の中のアドレスの52番目の人かも」


それだし。

「死ぬなんて、きっと痛い。痛いよ、痛いのは、身体によくない」

「曖昧だな。曖昧だ。蝉が人間を食べる程に、曖昧だ。それだし、甘い。甘ったれだ」

「甘ったれだ。そうだな。必要とするっつってもいつかは忘れるわけだ。あれ?なんだっけ?ってな。うん、そうなる」

「でも、ってか?」言葉だけが飛び交う。物陰一つ亡くした世界の夕焼け空は、血濡れの悪夢みたいだ。少なくとも今日は、優しくない。

「その人のほんの少しを、変えてるんじゃないかな。例えばさ、本を読んで思考が変わるとか、友達と会って夢が変わるとか、そんな感じ。変えられちゃったんだもん。伝えなきゃ」

「何を?誰に?」

「変えてくれたってこと、を、誰かに」


でも不器用だから、とおとぎは微笑む。不器用だから、伝えられない。だから、笑うのだ。優しく、笑う。幸せだったのよと云う為に。その変化は、優しかったのよ、と。

「さて、今日の晩ご飯は、何かな」

ローファーが、跳ねる。白い靴下が夕焼けに染められる。空は血濡れ。黒髪は、柔らかい。割れた硝子は心臓の奥に深く突き刺さっている。赤錆びた未来はポケットの中に。発した言葉は、誰かの心に。


「ハンバーグだと良いね」

影は、そう言うと、言葉を忘れた花の如く口をつぐんだ。いつの間にか人の姿が、ちらほらと視界に入り込んでいる。おとぎは深呼吸をすると、足を一歩踏み出した。