しばらくすると白衣を着た男の人が部屋の中に入ってきた。

「ずいぶん長いこと寝ていましたね。気分は、どうですか」

低い声。ゆっくりとしたしゃべり方の人は心配そうな顔をしながら丸い椅子に腰掛けた。

「幸村さんは!」声を荒げて訊いてしまう。

「ゆきむら・さん?」

男の人は、キツネ目の女のほうを見る。女の人は首をかしげた。

「エ、エレベーターに黒い影のような物があって、それで……」

白衣の男は、眉根を寄せて難しい顔をした。

「黒い影? ですか……。どこまで、覚えていますか?」

男の人は少し身を乗り出してきた。

記憶がとぎれるまでの一部始終を身振り手振りで話そうとするが、思い出そうとするたびにズキズキと小さく頭が痛む。

それに話してる内容が、あまりにも非現実的であることが理解できるほど話をしている内に、少しずつではあるが落ち着いてきたんだ。

それにしても、突然外国人に話しかけられてももうすこしマシだと思えるほど自分の投げかけた言葉のボールは投げても投げても2人をすり抜けていくし、ゆっくり投げようとしても投げた傍からあらぬ方へと飛んでいく。


話を聞く2人の表情は、あまりにも哀れみにあふれ出してきたのを感じ、これ以上一方的に話すことにブレーキをかけてしまった。

そこで、気になることを聞いてみた。ここはどこで、誰が連れてきたのだろう? という疑問をぶつけてみた。

すると、会社内に倒れていたところを警備会社の人が見つけて、救急車で、救急病院に、ということらしい。

「これまでに貧血で倒れたりだとか、そのようなことはありましたか?」

記憶を遡る。そんな事は、ここ数年はない。あるとしたら。

「はい、小学校の時に合唱コンクールの練習で」

「合唱コンクール」

「そうです、パンの歌というのを歌っていた時です」

男の人は頷いて、黙っているので話を続けることにした。

「そのときの先生が、木下さん。もっと口を大きく開けて、大きな声で、と。何回も注意されました。私に、だけです。

だから、それに応えようとして大きな声で歌いました」

「それは、どんな歌ですか?」

「ええ……っと」

思い出すふりをした。ここで歌えとでも言うのだろうか……、男の人は黙っているので、歌うことにした。