ある晩、あやのが昼間の重労働で、深い眠りについている時だった。
押し殺したような人の声に、ふと目を覚ますと、隣に寝ている筈の母とそれ以外のもう一人気配が。

《はっ、社長さん・・・》

旅館の旦那さんだった。
その晩以来、母の顔をまともに見ることが出来なくなった。

社長は毎週決まった日に私たちの部屋にやって来た。
組合の寄り合いで、女将さんの帰りが遅い日だ。

いつもあやのは、寝たふりをする。
ずっと嵐が去るのを待つかのように布団の中で、耳を塞いでいた。
そんなある日、その日は珍しく母が女将かみさんのお供することになった。

《今夜はゆっくり眠れる》

そう思ったと同時に襖が開いた。

社長さんだった。

嫌がるあやのは、あっけなく押さえつけられた。
社長は耳元で、
「お前たちここにずっと居たいんだろ?」と囁いた。

「シンゴ、聞いてる?」

僕は声を殺して泣いていた。

あやのは、そんな僕の髪に手でそっと撫で、話を続けた・・・

それから、あやのは一人でその漁村を離れたのだという。

板前見習いのてっちゃんにだけは手紙を残して。
歳も近かったせいか、あやのに優しくしてくれたのはてっちゃんだけだった。

年齢を誤魔化して、観光地や温泉地のスナックや小料理屋を転々として働いたそうだ。

いくつかの恋もしたが、すべての男がどうしようもなかった。

母といつの日にか小さなお店でも持ちたいと、一生懸命貯めていたお金を、何度とな
く持ち逃げされた。

そして、1年前、子供の頃の思い出が詰まったここへ舞い戻って来たのだ。
弟に再会したかったが、預けたその施設は無くなっていて、弟の行方は分からなくなっていた。