キリと悪魔の千年回廊

「湯浴みは汚れを落とすためだけのものじゃない。
俺は疲れをとりたいんだ。湯につかってくつろぎたい」

「…………」

庶民には無縁のわがままで贅沢な主張に、キリは少し考えて、何やら納得した様子でぽんと手を打った。

「水浴びが気持ちいいのと同じかな」

「そういうことだな」

「だったら──」

キリは立ち上がると、ガチャリと扉を開けて雨脚の弱まった外の闇を示した。

「裏手から少し歩いたところに沢があるから水浴びしてきたらいいよ」

ラグナードは言葉を失った。

少女の悪気のない笑顔と、
どんなに雨が弱まっていても、沢に行って戻ってくれば、再び泥だらけになるであろう外の天候とを交互に見て、

「いや、もういい」

ため息と一緒に風呂をあきらめた。

「そう?」と不思議そうな顔をして、キリが扉を閉めた。

わずかな時間に吹き込んできた雨水を魔法で消すのも忘れなかった。

「それにしても、こんな重装備でよくここまで歩いてきたね」

ラグナードが、脱いだ鎖かたびらをがしゃりと音を立ててイスの背もたれにかけるのを見て、キリはあきれた。

「鎧の下に鎖かたびらまで着こむなんて、戦場に行く人じゃあるまいし……」

「魔法使いを見つけたら、そのままパイロープに行く予定だからな、すぐに戦えるように戦の支度で来た」

「えっ? 王宮に寄ったりしないの? 直接パイロープに行くの?」

「当たり前だ。王宮に寄れば、お前を使うかどうかでまた一ヶ月は会議だ。
怪物が現れて一年だぞ? この上、そんな時間を割いているヒマはない」

「えーっと……まさかとは思うけど」

キリはおそるおそる尋ねた。

「わたしとラグナードの二人だけで、誰も帰ってこなかったパイロープに行くの?」

「そうだ」

目を丸くしたキリに、ラグナードは事もなさげに「これで俺たちが帰ってこなかったとしても、被害の人数は二人だけだ」と言った。

「無駄に軍を失いたくないと言っただろう。猛反対されるだろうから黙って国を出たともな」

「なるほど」

キリはぼう然としながらうなずいた。


三百の兵が戻って来なかったのであれば、確かに今さら百人や二百人の軍隊と一緒にパイロープに向かっても援護の意味はない。

どころか、下手をすればキリは、それだけの数の人間を正体不明の怪物から魔法で守らなければならないはめになる。

少人数で行くほうが有利なら、二人という人数は多くはないが、少なすぎることもない。


その二人のうちの一人が、王子様自らというところが非常識ではあるが。


けれどもキリは、この非常識な王子様に好感を覚えた。

鼻持ちならない態度ばかりとっているが、率先して自らの身を危険にさらしてもパイロープを何とかしたいという気持ちの根底には、他の人間を大切に思う優しい心を感じたからだった。