「くそっ、あの二人が、紫電のル・ルーに、青星のアルシャラだと……!?」
夜の森の中を疾走しながら、
人影はがく然とした口調で毒づく。
「そんな……そんなことが……」
たったいま魔法の明かりの下で見た二人の魔法使いたちの顔。
脳裏にくっきりと焼きついているのは、信じられない顔だった。
名前だけは何度も耳にした、
空飛ぶ小さな国の、有名な魔法使いたち。
その名前で互いを呼び合った者たちの顔は、
いま森の中を疾駆する人影にとって、
『二つともよく見知った人間のもの』だったのだから。
「なんとしても、この情報を伝えなければ──」
焦ったつぶやきはそこでとぎれた。
大地を震撼させる大音響。
大気を引き裂き、
天の怒りが降りそそぎ、
まばゆい閃光が視界をぬりつぶす。
閃光が消えた後、
周囲に広がった光景に、
人影は「あっ」と声を発したまま動きを止めた。
森がなくなった。
一秒前まではあったはずの木々がない。
木々にさえぎられて見えなかった月光がいまや白々と照らし出しているのは、広々とした原っぱだ。
あたりは見渡す限り、
身を隠す場所一つない平らな大地になっている。
おとぎ話の妖精にだまされた旅人のように、人影はぽかんと口を開けた。
いったいなにが起きたのかわからない。
自分はたしかに森の中を逃げていたはずなのに、とつぜん、違う場所に移動したのだろうかと目をこする。
「走りやすくなっただろう」
ぼうぜんとたたずんでいた人影は、
光に射ぬかれて、はっとわれに返る。
頭上にうかぶ月光とは違う、真昼の太陽のような明るい光だ。
「光栄に思え。この俺の魔法を目にする機会など、そうそうはないぞ」
言いながら、
こうこうと灯された魔法の明かりと一緒に、ル・ルーという名の魔法使いが歩いてくる。
これまで人影がこの魔法使いの名前として認識していたのは、別の名であるが。
人影はあわてて手で顔をかくした。
ル・ルーは歩みよりながら、
「半径五キーリオメトルムほどの森を蒸発させた」
と、言った。
魔法使いの言葉を何度も胸の中でくり返して、
魔法の光によって自分の影が長くのびた黒い大地を見下ろして、
人影はようやく、
なにが起きたのかを悟り、「あっ」ともう一度声を上げた。
「また目立つマネしやがったなー」
ル・ルーの後ろからは、あきれ顔でアルシャラがついてきている。
「落雷による山火事で森が一つ燃えてなくなるなど、よくあることだ」
「あのな。天才サマに一つ言っておくが、ふつうの山火事でこんなにきれいな更地はできねェよ」
人影はよろめいて、
近づいてくる魔法使いたちから、一歩後ろへと後じさった。
「ふん、逃げたネズミを捕まえるなら、ネズミが逃げこんだ森を魔法で消すのが早い」
じゃまな落ち葉を脇によけただけという調子でそう語るこの魔法使いは、
おおよそ地上の人のわざとは思えぬ真似をしたのだ。
瞬間的に別の場所へ移動したのではない。
ここはさきほどまでと同じ森の中であった。
野原は野原でも、
人影が立っているのは緑の原っぱではなく、一面の焼け野原であった。
足下の大地は、焼けこげたにおいを放っている。
真っ黒な地面の色は、
夜だからではなく、消し炭の色だ。
とてつもない魔法の力によって、
木々はすべて焼きつくされて足下に崩れ落ち、
森は瞬時にして荒野になり果てたのである。
まるで人ではない、神か魔物の如き所業であった。
「やっぱり欲しいね、あんたの魔法」
「おまえの火炎でもこの程度のマネ、容易にできるだろうが」
「そうだけどよ、あんたの魔法は、いずれ俺様がいただくぜ」
「やってみろ」
世界有数の実力を誇る二人の魔法使いは、軽口をたたき合いながら人影へと歩みよる。
本人の話がまことであれば――当然ウソではあるまいが――近づいてくる魔法使いがたった今行ったのは、どこの国のどんな宮廷魔術師にも不可能な破壊である。
むしろ──と人影は思う。
この魔法使いがどこかの宮廷魔術師ではなく、中立を掲げるエスメラルダに所属していることは幸いかもしれぬと。
ただ呪文を唱えるだけで、
半径五キーリオを焼きはらって、
なおそれがいとも容易きことであると語り平然としている。
もしもこの魔法使いがいずこかの国の宮廷魔術師として、戦場でこんな力を行使したならば──
いかほどの被害が出るのか想像もつかない。
「飛行騎杖並みの速度で走れるなら、一瞬で駆け抜けられる距離だ。逃げてみるか?」
人影に向かってそう言って、ル・ルーが闇の彼方を指さした。
まっすぐに人影へと歩を進める魔法使いと、五キーリオメトルム先にあるという見えない森との間で視線を何度も往復させて、
人影は逃げるのをあきらめた。
「どうした? 逃げんのか?」
挑発的に笑う魔法使いは、もう人影のすぐ間近まで歩いてきている。
夜とは言え、こんな見晴らしのきく場所を走って逃げては、
この魔物のような魔法使いは、人影を簡単に魔法でねらい撃ちにするだろう。
だが、
どんなにすごい魔法を使えたとしても、
人智を超えた破壊を行えたとしても、
相手は魔法使いだ。
そう踏んで、
人影はじゅうぶんに距離が縮まるのを待つ。
「観念したなら、どこの誰の命令で俺のあとをつけたのか、聞かせてもらおうか」
案の定、
動かない人影を見て、魔法使いは相手が観念したと思った様子で、無防備に間合いをつめてくる。
「ただ不審な飛行騎杖を見かけて追跡してきたならば、口封じに殺して終わりなんだけどな」
ル・ルーは苦笑して、
「もしも『最初から俺を見張れと命じられて』ここまで追ってきた者が帰らなかったとあっては、確実に怪しまれてしまうからな」
と、肩をすくめた。
むろん、
この魔法使いは、やろうと思えば逃げる人影を森ごと黒こげの炭にできたに違いない。
それをしなかったのは、
まさにこの判別がつかなかったからだろう。
「おまえはどちらだ──?」
「そう問われて、前者だと答えるバカがいるか?」
人影は冷ややかに返した。
「ん?」
と、人影の発した声を聞いて、ル・ルーが首をかしげた。
人影は片手で顔を隠したまま、
片手で背に隠し持ったナイフをにぎりしめる。
「私は後者だ。
前者かもしれないが、後者だと答えておこう。
おまえに真偽を判断することはできない」
ル・ルーが目を丸くした。
ナイフの間合いまで、あと一歩。
人影の口もとに小さく笑いがうかぶ。
「さあ、どうする?
私がもどればおまえの正体が知れるが、私がもどらなければ怪しまれるぞ」
「おまえ──女か」
ル・ルーはやや意外そうにつぶやき、立ち止まった。
間合いの中へと足を踏み入れて。
瞬間、
「彼女」は一気にふところへと飛び込み、
手にしたナイフの刃をル・ルーののどへと押し当て、
真横へ引く──
──はずだった。
「そんな──」
がっちりと腕をつかまれ、
動きを封じられて、
女の表情がこわばる。
「いい腕だ。俺たちでなければ、これで殺されていたんだろうけどな」
ぎらつくナイフを握る女の腕を押さえて、ル・ルーは笑った。
至近距離の死角からのナイフの一撃に、
まるで訓練された兵士のような動きで対処した魔法使いを、女は信じられない思いで見上げる。
当たり前だが、
ふつう魔法使いとは、体ではなく魔法の腕前を鍛えているものである。
なるほどル・ルーの背後で杖を片手に傍観しているアルシャラならば、幼い頃より武術の英才教育をほどこされていて然りである。
実際、水色のコートの下の露出度の高い服からは、魔法使いらしからぬ鍛え上げられた筋肉が見えているが、それはこの赤い髪の若者の特殊な正体故だ。
だが、ル・ルーはただの魔法使いだ。
見たところ杖すらも手にしておらず、武器もない。
だから呪文を唱えるひますら与えず、ナイフでのどをかっ切れば、容易にしとめられる。
そう思って、
油断していたのは女のほうだった。
「残念。俺もそこのアルシャラと同じでね。
呪文ナシのこういう格闘も得意なんだ」
逃れようともがく女の手をつかんだまま、ル・ルーは不条理な説明を口にした。
「俺は天才だからな。なんでもできるんだ」
そんなめちゃくちゃな──
と、思ったところで、
つかまれた腕からバチンと全身を衝撃がかけぬけ、女の手はナイフを落とす。
「ついでに教えてやるとな、呪文を唱えなくてもこうして接触していれば、相手を行動不能にするくらいの小さな雷は起こせるんだぜ?」
言葉どおり、
女の全身がしびれ、体が自由を失う。
その場にくずれ落ちる女の体を、ル・ルーが抱きとめた。
顎に手をかけて、ル・ルーは女の顔を上に向かせて魔法の明かりで照らす。
「ふうん。見覚えのない顔だな」
おまえはどうだ? と言って、ル・ルーが背後のアルシャラをふり返り、
炎のような髪の若者が、女の顔をのぞき込む。
「いや。俺様も知らねェ顔だ」
「殿……下……」
しびれた舌で女は思わずそう口走り、
「……俺様の顔を知ってやがるのか」
アルシャラが顔をしかめた。
「やっぱりガルナティスの王家に仕える密偵ってとこか?
見覚えはねェが、この年齢なら──普段は王宮の使用人や女官をしてる可能性もあるな」
魔法の明かりが照らし出しているのは、二十歳に届くかどうかという若い娘の顔だった。
「俺様も王宮の使用人の顔までは全部覚えてねェし。
おい、ル・ルー。王家に仕える密偵なら、あんまり手荒なマネは──」
くっくっく、とル・ルーが肩を揺らして意地悪く笑った。
「『するな』か?
おいおい、捨てた国に今さら義理立てか」
「…………」
ちっ、と舌打ちして、アルシャラはそっぽを向いた。
「あんたの好きにしろよ」
「そうするつもりだ。
見覚えはなくとも──顔は俺好みだからな」
楽しそうに口もとをゆがめて、ル・ルーの手が女の服にのびる。
「さて──体のほうは、どうかな?」
女の目にぎくりとした色がうかぶ。
必死に抵抗しようとするが、しびれた体にはまったく力が入らない。
その様を残忍な笑みをたたえたまま見下ろして、
「誰の命令で俺をつけたか、じっくりと聞きだそう」
女の服を脱がしながら、魔法使いは妖艶に双眸を細めた。
「体の自由を奪ったまま、感覚だけ敏感にしてやるよ」
あやしい光を灯した瞳で、ル・ルーが女の目をのぞきこむ。
「おまえはかん違いをしているな。
俺がおまえを殺さなかったのは、生かすか殺すかを決めあぐねてのことではない。
誰に忠義立てしていようが、
どんな信念を持っていようが、
おまえは今から、このル・ルーのものになるんだ。
身も心も──すべてな」
魔法使いがささやくたび、
とらえられた蝶の体にクモの糸が一本一本巻きつくかの如く、見えない魔法の支配が絡みつき、女の体だけではなく頭の中までが麻痺し、自由を失ってゆく。
「魔法使いに捕まるというのは、そういうことだ」
冷たい魔法使いの声が、
なぜか甘く蠱惑的な響きで耳にとどき、女はぞっとする。
抗う力をぬきとられ、
魔法使いの腕に身をゆだねながらも、
残った最後の理性でかろうじてル・ルーをにらみつけた女を、「おやおや、頑張るな」とあざ笑って、
「だが、すぐに何もかもわからなくなる」
ル・ルーはやわらかな唇に魔性の口づけを落とした。
夜の森の中を疾走しながら、
人影はがく然とした口調で毒づく。
「そんな……そんなことが……」
たったいま魔法の明かりの下で見た二人の魔法使いたちの顔。
脳裏にくっきりと焼きついているのは、信じられない顔だった。
名前だけは何度も耳にした、
空飛ぶ小さな国の、有名な魔法使いたち。
その名前で互いを呼び合った者たちの顔は、
いま森の中を疾駆する人影にとって、
『二つともよく見知った人間のもの』だったのだから。
「なんとしても、この情報を伝えなければ──」
焦ったつぶやきはそこでとぎれた。
大地を震撼させる大音響。
大気を引き裂き、
天の怒りが降りそそぎ、
まばゆい閃光が視界をぬりつぶす。
閃光が消えた後、
周囲に広がった光景に、
人影は「あっ」と声を発したまま動きを止めた。
森がなくなった。
一秒前まではあったはずの木々がない。
木々にさえぎられて見えなかった月光がいまや白々と照らし出しているのは、広々とした原っぱだ。
あたりは見渡す限り、
身を隠す場所一つない平らな大地になっている。
おとぎ話の妖精にだまされた旅人のように、人影はぽかんと口を開けた。
いったいなにが起きたのかわからない。
自分はたしかに森の中を逃げていたはずなのに、とつぜん、違う場所に移動したのだろうかと目をこする。
「走りやすくなっただろう」
ぼうぜんとたたずんでいた人影は、
光に射ぬかれて、はっとわれに返る。
頭上にうかぶ月光とは違う、真昼の太陽のような明るい光だ。
「光栄に思え。この俺の魔法を目にする機会など、そうそうはないぞ」
言いながら、
こうこうと灯された魔法の明かりと一緒に、ル・ルーという名の魔法使いが歩いてくる。
これまで人影がこの魔法使いの名前として認識していたのは、別の名であるが。
人影はあわてて手で顔をかくした。
ル・ルーは歩みよりながら、
「半径五キーリオメトルムほどの森を蒸発させた」
と、言った。
魔法使いの言葉を何度も胸の中でくり返して、
魔法の光によって自分の影が長くのびた黒い大地を見下ろして、
人影はようやく、
なにが起きたのかを悟り、「あっ」ともう一度声を上げた。
「また目立つマネしやがったなー」
ル・ルーの後ろからは、あきれ顔でアルシャラがついてきている。
「落雷による山火事で森が一つ燃えてなくなるなど、よくあることだ」
「あのな。天才サマに一つ言っておくが、ふつうの山火事でこんなにきれいな更地はできねェよ」
人影はよろめいて、
近づいてくる魔法使いたちから、一歩後ろへと後じさった。
「ふん、逃げたネズミを捕まえるなら、ネズミが逃げこんだ森を魔法で消すのが早い」
じゃまな落ち葉を脇によけただけという調子でそう語るこの魔法使いは、
おおよそ地上の人のわざとは思えぬ真似をしたのだ。
瞬間的に別の場所へ移動したのではない。
ここはさきほどまでと同じ森の中であった。
野原は野原でも、
人影が立っているのは緑の原っぱではなく、一面の焼け野原であった。
足下の大地は、焼けこげたにおいを放っている。
真っ黒な地面の色は、
夜だからではなく、消し炭の色だ。
とてつもない魔法の力によって、
木々はすべて焼きつくされて足下に崩れ落ち、
森は瞬時にして荒野になり果てたのである。
まるで人ではない、神か魔物の如き所業であった。
「やっぱり欲しいね、あんたの魔法」
「おまえの火炎でもこの程度のマネ、容易にできるだろうが」
「そうだけどよ、あんたの魔法は、いずれ俺様がいただくぜ」
「やってみろ」
世界有数の実力を誇る二人の魔法使いは、軽口をたたき合いながら人影へと歩みよる。
本人の話がまことであれば――当然ウソではあるまいが――近づいてくる魔法使いがたった今行ったのは、どこの国のどんな宮廷魔術師にも不可能な破壊である。
むしろ──と人影は思う。
この魔法使いがどこかの宮廷魔術師ではなく、中立を掲げるエスメラルダに所属していることは幸いかもしれぬと。
ただ呪文を唱えるだけで、
半径五キーリオを焼きはらって、
なおそれがいとも容易きことであると語り平然としている。
もしもこの魔法使いがいずこかの国の宮廷魔術師として、戦場でこんな力を行使したならば──
いかほどの被害が出るのか想像もつかない。
「飛行騎杖並みの速度で走れるなら、一瞬で駆け抜けられる距離だ。逃げてみるか?」
人影に向かってそう言って、ル・ルーが闇の彼方を指さした。
まっすぐに人影へと歩を進める魔法使いと、五キーリオメトルム先にあるという見えない森との間で視線を何度も往復させて、
人影は逃げるのをあきらめた。
「どうした? 逃げんのか?」
挑発的に笑う魔法使いは、もう人影のすぐ間近まで歩いてきている。
夜とは言え、こんな見晴らしのきく場所を走って逃げては、
この魔物のような魔法使いは、人影を簡単に魔法でねらい撃ちにするだろう。
だが、
どんなにすごい魔法を使えたとしても、
人智を超えた破壊を行えたとしても、
相手は魔法使いだ。
そう踏んで、
人影はじゅうぶんに距離が縮まるのを待つ。
「観念したなら、どこの誰の命令で俺のあとをつけたのか、聞かせてもらおうか」
案の定、
動かない人影を見て、魔法使いは相手が観念したと思った様子で、無防備に間合いをつめてくる。
「ただ不審な飛行騎杖を見かけて追跡してきたならば、口封じに殺して終わりなんだけどな」
ル・ルーは苦笑して、
「もしも『最初から俺を見張れと命じられて』ここまで追ってきた者が帰らなかったとあっては、確実に怪しまれてしまうからな」
と、肩をすくめた。
むろん、
この魔法使いは、やろうと思えば逃げる人影を森ごと黒こげの炭にできたに違いない。
それをしなかったのは、
まさにこの判別がつかなかったからだろう。
「おまえはどちらだ──?」
「そう問われて、前者だと答えるバカがいるか?」
人影は冷ややかに返した。
「ん?」
と、人影の発した声を聞いて、ル・ルーが首をかしげた。
人影は片手で顔を隠したまま、
片手で背に隠し持ったナイフをにぎりしめる。
「私は後者だ。
前者かもしれないが、後者だと答えておこう。
おまえに真偽を判断することはできない」
ル・ルーが目を丸くした。
ナイフの間合いまで、あと一歩。
人影の口もとに小さく笑いがうかぶ。
「さあ、どうする?
私がもどればおまえの正体が知れるが、私がもどらなければ怪しまれるぞ」
「おまえ──女か」
ル・ルーはやや意外そうにつぶやき、立ち止まった。
間合いの中へと足を踏み入れて。
瞬間、
「彼女」は一気にふところへと飛び込み、
手にしたナイフの刃をル・ルーののどへと押し当て、
真横へ引く──
──はずだった。
「そんな──」
がっちりと腕をつかまれ、
動きを封じられて、
女の表情がこわばる。
「いい腕だ。俺たちでなければ、これで殺されていたんだろうけどな」
ぎらつくナイフを握る女の腕を押さえて、ル・ルーは笑った。
至近距離の死角からのナイフの一撃に、
まるで訓練された兵士のような動きで対処した魔法使いを、女は信じられない思いで見上げる。
当たり前だが、
ふつう魔法使いとは、体ではなく魔法の腕前を鍛えているものである。
なるほどル・ルーの背後で杖を片手に傍観しているアルシャラならば、幼い頃より武術の英才教育をほどこされていて然りである。
実際、水色のコートの下の露出度の高い服からは、魔法使いらしからぬ鍛え上げられた筋肉が見えているが、それはこの赤い髪の若者の特殊な正体故だ。
だが、ル・ルーはただの魔法使いだ。
見たところ杖すらも手にしておらず、武器もない。
だから呪文を唱えるひますら与えず、ナイフでのどをかっ切れば、容易にしとめられる。
そう思って、
油断していたのは女のほうだった。
「残念。俺もそこのアルシャラと同じでね。
呪文ナシのこういう格闘も得意なんだ」
逃れようともがく女の手をつかんだまま、ル・ルーは不条理な説明を口にした。
「俺は天才だからな。なんでもできるんだ」
そんなめちゃくちゃな──
と、思ったところで、
つかまれた腕からバチンと全身を衝撃がかけぬけ、女の手はナイフを落とす。
「ついでに教えてやるとな、呪文を唱えなくてもこうして接触していれば、相手を行動不能にするくらいの小さな雷は起こせるんだぜ?」
言葉どおり、
女の全身がしびれ、体が自由を失う。
その場にくずれ落ちる女の体を、ル・ルーが抱きとめた。
顎に手をかけて、ル・ルーは女の顔を上に向かせて魔法の明かりで照らす。
「ふうん。見覚えのない顔だな」
おまえはどうだ? と言って、ル・ルーが背後のアルシャラをふり返り、
炎のような髪の若者が、女の顔をのぞき込む。
「いや。俺様も知らねェ顔だ」
「殿……下……」
しびれた舌で女は思わずそう口走り、
「……俺様の顔を知ってやがるのか」
アルシャラが顔をしかめた。
「やっぱりガルナティスの王家に仕える密偵ってとこか?
見覚えはねェが、この年齢なら──普段は王宮の使用人や女官をしてる可能性もあるな」
魔法の明かりが照らし出しているのは、二十歳に届くかどうかという若い娘の顔だった。
「俺様も王宮の使用人の顔までは全部覚えてねェし。
おい、ル・ルー。王家に仕える密偵なら、あんまり手荒なマネは──」
くっくっく、とル・ルーが肩を揺らして意地悪く笑った。
「『するな』か?
おいおい、捨てた国に今さら義理立てか」
「…………」
ちっ、と舌打ちして、アルシャラはそっぽを向いた。
「あんたの好きにしろよ」
「そうするつもりだ。
見覚えはなくとも──顔は俺好みだからな」
楽しそうに口もとをゆがめて、ル・ルーの手が女の服にのびる。
「さて──体のほうは、どうかな?」
女の目にぎくりとした色がうかぶ。
必死に抵抗しようとするが、しびれた体にはまったく力が入らない。
その様を残忍な笑みをたたえたまま見下ろして、
「誰の命令で俺をつけたか、じっくりと聞きだそう」
女の服を脱がしながら、魔法使いは妖艶に双眸を細めた。
「体の自由を奪ったまま、感覚だけ敏感にしてやるよ」
あやしい光を灯した瞳で、ル・ルーが女の目をのぞきこむ。
「おまえはかん違いをしているな。
俺がおまえを殺さなかったのは、生かすか殺すかを決めあぐねてのことではない。
誰に忠義立てしていようが、
どんな信念を持っていようが、
おまえは今から、このル・ルーのものになるんだ。
身も心も──すべてな」
魔法使いがささやくたび、
とらえられた蝶の体にクモの糸が一本一本巻きつくかの如く、見えない魔法の支配が絡みつき、女の体だけではなく頭の中までが麻痺し、自由を失ってゆく。
「魔法使いに捕まるというのは、そういうことだ」
冷たい魔法使いの声が、
なぜか甘く蠱惑的な響きで耳にとどき、女はぞっとする。
抗う力をぬきとられ、
魔法使いの腕に身をゆだねながらも、
残った最後の理性でかろうじてル・ルーをにらみつけた女を、「おやおや、頑張るな」とあざ笑って、
「だが、すぐに何もかもわからなくなる」
ル・ルーはやわらかな唇に魔性の口づけを落とした。



