「とにかく、僕はもう、往診にいかなければなりません」

一言断って、弁慶はすっと、立ち上がった。

そして、呆然としている二人を、放っておいて、さっさと身支度を始める。

「ああ。でも、望美さんが10日も何も食べていないのは、問題ですね」

今更ながら、思い出したかのように、弁慶はそう言って。

棚から一つの小さなツボを取り、途方に暮れている望美の前に、コトリと置いた。

「ハチミツです。これなら、栄養もありますし。匂いが大丈夫なようでしたら、舐めてください」

そのときばかりは、弁慶も労わるように、本当に優しく望美に笑いかける。

その姿は、確かに、紛れもなく、望美を愛おしんでいるものの姿だった。

が。

望美はそんなコトには、当然、気付くことなく。

否、戦いの最中ですら、八葉たちの恋心に気付かないくらいだ。

リズヴァーンだけを見つめている望美が、今更、気付くハズなどない。

「は、い?」

ただ、呆けながらそれだけ言って、礼も言わずに、今度は置かれたツボを一心に見つめる。

そんな望美の姿に、苦笑を零し、弁慶は支度を整えた。

「では、僕は行ってきますので、二人とも、好きなだけ呆けていてください」

さわやかとも取れる笑みを残し、すたこらと荷物を片手に、弁慶が、土間へと下りる。

そして、何事もなかったように、家の扉に手をかけた。




≪こうして私は途方に暮れた≫~後編~




「……弁慶、聞きたいことがある」

だが、ココに来て、ようやくリズヴァーンが言葉を発する。

扉を開けようとしていた手を止め、弁慶は柔らかな笑みを浮かべたまま、振り返った。

「はい。なんでしょう?」

「望美を連れて、……隠行を使っても、問題ないだろうか?」

言うに事欠いて、今、聞きたいのはそれか?と、ツッコミを入れたくなるような問いを投げかける。

だが、弁慶は、さして気にする風でもなく、暫し、考えるような顔をした。

「――…まぁ、お腹の子も鬼の血を引いているわけですから、大丈夫だと思いますけど?」

しれっとした顔で、適当なことを言いつつ、弁慶は扉を開け、一歩を踏み出した。

「では、危険性がないわけでも、ないのだな?」

「ですが、白龍の祝福もあるようですし、問題はないでしょう」

いったい、どんな根拠があって、それを言うのか。

鬼を宿した妊婦など、絶対に、診たことなどあるはずもないのに。

きっと、どこぞの別当がこの場にいたら、そう突っ込んでいたに違いない。

だが、あいにく、ココには、弁慶に立ち向かえるほどの勇者はいない。

望美ですら、呆けているのだから。

「ああ。でも、ご心配でしたら、梶原の家にいかれては、いかがでしょう?」

その言葉だけで、弁慶の意図するところがリズヴァーンには読めたのだろう。