「ごめん」

 ずんずん歩いていた雅浩が選んだ静かなカフェで、まずは謝罪の言葉を聞く。さっきの騒動で一瞬だけ忘れていたあの光景を思い出し、胸がズキンと痛んだ。けれど恐れていた展開にはならなくて、続いたのは遅刻と携帯の不通を詫びる言葉。そしてその理由として雅浩が懐から出して見せてくれたもの、それはー―。

「音楽事務所、mikihara――?」

 白い名刺に印刷された文字を読み上げると、雅浩は頷いた。社長、三木原 智代と続いた名前を目で追って、おもむろに名刺を裏返して思わず口をあんぐりと開けてしまった。だってそこには、堂々と微笑むさっきの女性の顔写真が載っていたのだから。

「あれ、もしかして知ってた? この事務所」

「うっ、ううん! 全然!」

 名刺を持った手も合わせてぶんぶんと振る。あたしの必要以上の否定に雅浩はぽかんとしつつも、すぐに照れくさそうな微笑に戻った。

「この前から何度か会って打ち合わせしたんだけど、やっと今日――ついさっき正式に決まってさ。ようやく俺らも、インディーズ卒業、って運びになりそうなんだ」

「えっ、ほ、本当?」

 すごいじゃない、と思わず歓声を上げたあたしに雅浩はしっと人差し指を立てて見せる。

「声が大きいって。さっきもファンの子に見つかりそうになってさ、なんとか巻いてきたとこなんだから。まあ俺は地味なベースだし、あの子たちの目当てはボーカルのヤスだから関係ないんだけど、どこに住んでんのかとかしつこくされるとまずいんだよ」

「うん、わかってる。そうだよね」

 いつも聞かされている注意事項。それはたまたま友達と見に行ったライブの後、偶然街中で雅浩と会ったあの日から耳にタコができるぐらい聞いてきた話だ。

 インディーズで人気が出てきたバンドのメンバーである彼と、今目の前にいる雅浩が同一人物であることにも最初は気づかなくて。

 ステージ上ではメガネをかけていないから、というだけの理由ではないくらいに普通の大学生の顔をしていたから、気づけないのも無理はないと言い返したけれど、雅浩はそんなあたしがいいといつも笑ってくれて。