その日、フォル=カーバスは最悪の悪夢にうなされていた。
 夢の内容は、逃げても逃げても得体の知れない何かに追われ続ける、という実にありがちなものである。
 辺りは鬱蒼とした森の中。
 先の見えない暗闇ではないが、追っ手の姿は未だ確認できていない。
 その気配も、遥か遠くなのか目前にまで迫っているのかいまいちはっきりと掴めず、追っ手の正体は形の無い幻なのではないか、とさえ思えてくる。
 近付いてくるのは、足音でも気配でもなく、歌声。
 森の中に響くその現実離れした優しげな調べが、彼女にとってはたまらなく恐ろしいものに感じられた。
 しかし、自由の利かない体に魔力を通す度に走る激痛が、これが夢の中の出来事ではなく、紛れもない現実であると、彼女に知らしめている。
 痛いほどに。
「くそ、これさえなければ……」
 憎々しげに吐き捨てたフォルは、ぼろぼろになった囚人服の袖から覗くブレスレットを睨み付ける。
 これは、装着した者の五感を狂わせ、体力と魔力を奪い続け、その増大を感知すると同時に装着者の全身に激痛を走らせるという、強力な拘束呪具である。
 その効き方には個人差はあるものの、この拘束具による異常な消耗と、集中を阻む激痛は、今の彼女にとっては致命的と言えた。
 無論、満足に魔力を扱えない彼女には、かなりの強度を持つこれを破壊する事など出来ようはずもない。
 ゆっくりと進めていた歩みを止め、フォルは後ろを振り返る。
 その先の遥か彼方には、東国が存在していた。
 故郷に思いを馳せながら、フォルは“準備”に取りかかる。
 彼女は元・魔女、すなわち女王に仕え任務をこなす国家術師であった。
 しかし、ある人物に関する行為を罪に問われ投獄された彼女は、目下その人物の元を目指して脱獄中の身である。
 その人物の元へ辿り着くには、彼女はこんな場所で油を売っている訳にはいかないのだ。
 ましてや、追っ手に捕まるなど論外である。
 女王の番犬達には分かるまい。
 その人物が些細な事に一喜一憂していた、一人の人間であった事を。