いくら取引先の偉い人が頭を下げるからと言っても、そろそろ限界なんじゃないだろうかと、亜紀は何度目か判らないため息を吐き、鬱々いらいらし始めた気分を切り替えようと、コーヒーを淹れるために席を立った。

また、町田と目が合う。

「淹れてきますか?」
「わりぃな」

まるで、亜紀のその言葉を待っていたような町田の即答に、亜紀は小さな苦笑を浮かべる。

「係長。お茶淹れてきますか?」
「しぶーいのな。もう、眠いのとイライラで、頭がぴくりとも働かねえ」

北岡には、飲み物はミルラルウォーターか炭酸飲料という、健康なのか不健康なのかよく判らないそんなこだわりがあった。だから北岡に対しては、亜紀は何も尋ねなかった。

自社ビルである3階建てのこの社屋は、各階を繋ぐ階段の踊り場に給湯室が作られている。
100均ショップで買ってきた小さなトレイに、自分のマグカップと町田のマガカップ、野田の湯飲みを乗せて、亜紀は階段を下りていった。

お茶を淹れたカップを持って階段を登るのは大変そうだが、お茶を淹れたカップを持って階段を降りるほうが、亜紀には怖い。
昔、その状態で階段から転がり落ちたことが、亜紀にはトラウマになっていた。
今でも階段を降りている途中で背後に人の気配を感じると、亜紀の足は竦んでしまう。


-泥棒猫っ


転がり落ちてうずくまっていた頭上から浴びせられた憎々しげな罵声が、耳に蘇り、息が詰まってしまう。
人気のない階段に密かに安堵しながら、亜紀は給湯室を目指した。