が、大和朝廷が成立し整備され、中国王朝の文化が模範とされる社会になってくると、刺青は古代の役割を失い、少なくとも支配階級にとっては「卑しい下民の野蛮な風習」と見られるようになる。
 装飾美にこだわった平安貴族が、刺青だけは取り入れなかったのは多分そのせいだろう。

 その結果、入れ墨の手法で体に色や線を入れるのは、刑罰としての行為とみなされるようになり、江戸時代で言う「入れ墨」になっていった。
 武士階級が台頭した時代にも、帰属や成人である事を示す手段としては、服装、髪型などで周りに誇示する風習が確立していたため、支配階級の間では実用的な入れ墨の習慣は不要であった。

 ただし、それは支配階級、上流階級での話。
 身分制度が確立していくに従って、庶民には「自分を誇示する機会、手段」が少なくなり、江戸時代になると逆に庶民階級で純粋に身体装飾としての彫り物、刺青が盛んになった。

 まずヤクザだが、彼らの刺青は侠客であるという帰属証明という意味合いがまだ残っていた。
 ヤクザとは言えない職業の人たちにまで彫り物としての刺青が広まったのが江戸時代の特徴で、町火消に刺青持ちは多かった。

 当時の町火消はいざ出動となれば命がけの仕事であり、江戸の庶民にとってはある種のヒーローであった。
 当然普段から頼りにされ、暴力沙汰の仲裁を頼まれることも多かったため、相手を威圧する目的で彫り物をする町火消が増えた。

 やがて同じように胆力が要求される職業、たとえばとび職、飛脚(道中で山賊などに襲われる危険があるから)も競って彫り物を入れるようになった。
 自分が度胸のある人間だということを周りに誇示し、かつ「俺に手を出すなよ。俺は強いぜ」という警告でもあったわけだ。

 これが女性にまで広がった。特に遊郭の遊女は、ライバルから自分を差別化する必要から派手な彫り物を入れる女性も現れた。